『労働通信』2001年3月号
今年の「春闘」では、日経連が「横ならびの賃金交渉は二〇世紀でおわった」として、労働者一人一人の「成果・実績」にもとづいて賃金をきめることをうちだしているように、賃金とはなにか、賃金はなにによってきめられるのかがあらためて問われている。
そこで今号では、マルクス主義の理論にそって、賃金の問題を考えてみたい。
ふつう賃金といえば、労働にたいする対価だと考えがちである。さいきんでは、能力主義賃金や歩合制賃金がもてはやされ、「賃金は企業の業績の成果配分だ」という考えがまんえんしている。
だが、賃金とは労働にたいする対価ではなく、労働力にたいする対価である。「力」がはいるかはいらないかで、大きなちがいがある。労働力とは、はたらくための肉体的、精神的な能力のことであり、労働とは労働力を消費すること、すなわちはたらくことそのものである。
労働者は、たとえば朝の九時から夕方の六時まで、自分の労働力を資本家にうるのであって、労働をうるのではない。資本家は、労働者からかった労働力を消費して、すなわち労働者をはたらかせて、生産活動やサービスをおこなう。これは、ちょうど「砂糖」と「砂糖の消費」のちがいににている。砂糖屋がうるのは、砂糖であって砂糖の消費ではない。消費者は、砂糖をかうことによってはじめて、砂糖をたべる(消費する)ことができるのである。
この労働力の価値(その時代、社会の平均的な賃金水準)は、ほかの商品とおなじように、需要と供給の関係によって多少の上下はあるが、基本的にその商品のコスト(その商品を生産するのに必要とした労働の量)によってきまる。労働力のコストとは、その社会で労働者とその家族の衣食住や子どもの養育・教育、旅行や娯楽など、いきていくのに必要な社会的、平均的な費用を意味している。賃金は、「どれだけはたらいたか」「ノルマを達成できたかどうか」できめられるのではなく、労働者にとって必要な生活費によってきめられてとうぜんなのである。
ここで重要なことは、この労働力という商品は、ふつうの商品とちがって、これを消費する(労働させる)と、その価値(賃金)より大きなあらたな価値をうみだすという特殊な性質をもっているということである。これはふつうの商品、たとえば砂糖などは消費すると(たべると)、その価値がなくなってしまうのとは大きなちがいである。
たとえば、労働力の価値(賃金)が一日あたり八〇〇〇円だとする。
資本家がこの労働力を購入し、自分の工場で八時間はたらかせる。すると図1のように、労働者の労働(労働力の消費)によって、労働力の価値=八〇〇〇円よりも大きな価値がうみだされる。これをかりに一日一万六〇〇〇円だとすると、このうち労働力の価値をこえて余分につくりだされる価値=八〇〇〇円のことを剰余価値という。これが資本家の利潤の源泉である。
つまり、一日八時間の労働時間は、労働者に支払われた四時間分の必要労働(支払い労働)時間と、資本家がふところにいれてしまう四時間ぶんの剰余労働(不払い労働)時間とにわかれるのである。
労働力の一日分の価値よりも、労働力の消費によってつくりだされる価値の方がかならず大きい。なぜなら、資本主義の生産力の水準が歴史的に高い水準に達しているからである。かんたんな道具しかなかった奴隷時代でさえ一人の奴隷が一日はたらけば、その奴隷が生きていくのに必要なものより、おおくの生産物をつくりだしたから、奴隷主がぜいたくなくらしをすることができた。奈良の大仏やエジプトのピラミッドができたのはそのためである。ましてや高度な技術がある現代では、労働者は自分自身が必要なものよりはるかにおおくのものを生産している。
だが、生産過程でうみだした一万六〇〇〇円の価値はまるまる資本家のものである。なぜなら、資本家はすでに労働力を購入した以上、これをどうつかうかは資本家の自由であり、その結果うまれた生産物も資本家のものだからである。
ところで、賃金があたかも「労働の対価」のようにみえるのはなぜだろうか。それは、労働したあとで、労働した時間数やつくった生産物の量(あるいは売上)に応じて賃金が支払われるからである。これは、一日労働日が支払い労働時間と不払い労働時間にわかれていることをおおいかくすためのものである。そのための賃金の形態として、時間賃金と出来高賃金とがある。
@時間賃金とは
時間賃金は、はたらいた時間に応じて賃金額がきめられる仕組みで、時給、日給、週給、月給などがある。これらは普通、時間あたりの価格を尺度としてはかられる。
さきほどの例でいえば、労働力の価値八〇〇〇円(四時間分の労働時間に相当)を一日の労働時間八時間でわった一〇〇〇円が一時間あたりの単価ということになる。そこから逆算して、労働者は八時間はたらいたから、一〇〇〇円×八時間=八〇〇〇円が日給だということになり、搾取の関係がおおいかくされてしまう(図2参照)。
いま、資本家がサービス残業をおしつけたり、変形労働時間制を悪用したりして、労働時間を一〇時間に延長したとすると、一時間あたりの単価は八〇〇円となり、賃さげとなる。かりに延長したぶんの賃金や残業手当が完全に支払われたとしても、長時間労働による労働力の肉体的・精神的消耗は労働時間の増大以上に大きなものがある。それをリフレッシュしようとすれば、よけいな出費が必要となり、さしひきすれば賃金はさがったことになる。
また、おおくの職場では、労働者が残業を希望したりすることもしばしば目にする。それは、基準賃金が低すぎるために、まともな生活をするために手当をかせごうとするからである。その意味で、時間外手当は労働者を時間外労働へとつるえさの役割をはたしている。
そして、一人の労働者が残業をやって一・五人分の労働をしたとすると、そのぶん、「余剰人員」がうまれ、労働者同士の競争をうながし、労働条件をわるくさせる。
このように時間賃金のもとでは、低賃金と長時間労働がきりはなせないようになっているのである。
A出来高賃金とは
出来高賃金は、つくった生産物やおこなった作業の分量に応じて、それぞれの労働者の賃金がきまるしくみである。タクシーなどの歩合制賃金や能力・業績主義賃金、年俸制なども出来高賃金の一種である。
しかし、労働者がつくった生産物のうちに一定の大きさの労働時間がふくまれているかぎり、やはり出来高賃金も時間賃金がかたちをかえたものにすぎない。
たとえば、一日八時間でふつうの労働者なら平均して二〇個の生産物がつくれ、一日の労働力の価値は四時間分=八〇〇〇円だとしよう。すると、労働力の価値八〇〇〇円を二〇個分でわった額四〇〇円が、出来高賃金の単価ということになる。
それにぎゃくにして、その労働者は一日に二〇個つくったから賃金は八〇〇〇円ときめられる。そうすると、ますます労働日が支払い労働と不払い労働にわかれているという本質がおおいかくされて、賃金は「労働の対価」といういつわりの外見がつよまることになる(図3参照)。
出来高賃金には、つぎのような独特の特徴がある。
第一は、労働の質を統制できることである。出来高賃金は、つくった生産物の量に応じて支払われるものなので、労働者はできるだけおおくのものをつくろうとして、品質に注意しなくなりがちである。そのため、資本家は一定の品質基準をもうけて、それ以下のものについては賃金から罰金をとったりする。つまり、労働の質が賃金形態そのものによって統制されているのである。資本家は、わずかのミスにもいいがかりをつけたり、「足きり」などをつくって、賃金をへらそうとする。
第二は、出来高賃金は資本家にたいして、労働の強度をはかるための正確な尺度を提供する。一定の時間に平均どれぐらいの生産ができるかはだいたいわかっているので、資本家はそれを基準にして、それ以下の作業能力しかない労働者をやめさせてしまう。そのため資本家は、いつも平均以上の労働を手にいれることができるし、つねにその基準をあげていくこともできる。
第三に、出来高賃金では労働の質と強度が賃金形態そのものによって統制されているので、労働者への監督がほとんどいらなくなる。
出来高賃金では、労働者がはたらけば、はたらくほど、その労働者の「個人的利益」となる。たとえば、はじめは一日八時間で二〇個の生産物をつくっていた労働者が、猛烈にはたらいて二五個の生産物をつくったとする。この労働者の賃金は単価四〇〇円×二五個=一万円になり、個人的利益は一時的に高まる。
ところがそうなると、ほかの労働者も一日に二五個つくるようになる。そうなると資本家は標準生産量を二五個にひきあげてしまうので、けっきょく一個あたりの単価は三二〇円にさがってしまう。資本家は、まんまと労働の標準的強度をひきあげたうえに、八〇〇〇円の賃金をはらって一万二〇〇〇円の利潤を手にいれるようになる。
労働者が自分の目さきの利益や賃金の格差ばかりに目をうばわれていると、たがいに競争させられ、結果として賃金全体の水準をひきさげられてしまうことになるのである。
B能力給、成果主義の落とし穴
出来高払い賃金の一種である能力給、成果主義の賃金にはさまざまな落とし穴がある。成果主義、能力給は、「結果の平等より機会の平等」と称しておおくの民間企業や公務員の職場でも導入されている。それは、営業成績などの上位者にたいして、より高い賃金を支払うということになっている。
しかし、ここにもおおきな落とし穴が控えている。郵便局でいえば、営業成績などによって、賃金を上昇させるとしているが、ではいったいなにを基準にして、昇格させるのか、判断材料がまったく客観的でなく、所属長の恣意的な判断になってしまう。おなじような営業成績をあげても「Bはいいが、Cはだめ」と判断するのは所属長であり、そこには「公平さ」はない。また昇給を毎年かちとろうとおもえば、毎年、昨年を上回る営業成績をあげざるをえず、労働者自らが「労働強化」にまい進する結果となる。
NTTの賃金体系にしても、労働者を五段階に評価し、AからEまで労働者を区分しようとしているが、実際のところ、Aに評価されるのは、全労働者の一割にも満たない数であり、圧倒的多数は、D、Eの評価となる。
また、ある民間企業では、生産部門や技術部門の労働者も、それぞれが担当した仕事の売上額によって給与がきめられている。そのため、おなじような努力をして生産をおこなっても、たまたま自分が担当した仕事の契約額によって賃金に差がついてしまうという問題がおこっている。また、おなじような能力が必要な仕事をしていても、たまたまその人がつとめる企業の規模がちがうために、賃金に差がでてくるというのはおおくの労働者が経験していることである。
「一生懸命努力し成績をあげれば賃金が増える」といわれているが、けっしてそうではなく全体的にみれば労働者の総人件費を抑制するのが「成果主義、能力主義賃金」なのである。
資本家は、剰余価値をすこしでもおおくしようとして、さまざまな口実や手段をつかって、賃金を労働力の価値以下にさげようとする。
したがって、労働者はだまっていてはどんどん賃金がひきさげられるばかりであり、生きていくためには賃金闘争が必要である。資本家の利潤がふえれば、労働者の賃金はへるのであり、賃金があがれば利潤がへるという関係になっている。そして、この賃金と利潤の比率がどれぐらいになるか、賃金がどれぐらいの水準におちつくのかは、資本家階級と労働者階級とのあいだの力関係によってきまるのである。この力関係は、個個の企業の枠のなかだけの闘争でかえられるものではなく、企業の枠をこえた地域共闘や産業別の共同闘争などを発展させることをつうじてかえていくことができる。
しかし、わたしたちは、この抵抗闘争を最高の目的と考えたり、それに自己満足してはならない。賃金闘争は、搾取の結果にたいする闘争であり、その根本的な原因にたいする闘争ではない。
賃金闘争を断固としてすすめると同時に、そのなかで搾取の根源である賃金奴隷制度そのものの廃止をめざすたたかいを組織していくことが重要である。まさに、こんにちの社会のあり方を問うたたかいが必要となってくるのである。