『労働通信』2001年3月号
虹を追っかけるような運動を総括して 清掃労働者 今井宏一
わたしの職場は、地方の委託の清掃会社で、約三〇人くらいの零細企業である。はやいもので、わたしがつとめてから一〇数年がすぎた。
会社は社長一族のワンマン経営で、組合つぶしの経歴を持つおかかえ議員と労務士を相談役にして二代目がおもてで仕切っている。
一代目の社長がおもてのときはB氏をかわいがり飲み食いをさせて情報をあつめ、かれをつかって労働者を支配してきた。
その手口は、労働者が賃金や労働条件で相談にいくと「一〇年はやい」「要求するなら三階へいけ」(三階には社長が住んでいる)というもので、かれの言葉を信じていった労働者は社長から「いやならやめろ」といわれ、つぎつぎとやめていった。
労働者のなかでは、B氏はそれでも仕事がよくでき、人を公平にあつかうところがあるために、また、仕事以外では比較的めんどうみがいいため、表面上かれにしたがう人はおおかった。親睦会もあり、旅行もあって、当時の会社の募集のキャッチフレーズにもあるように「家庭的な職場」という雰囲気だった。「意識の未分化」というか、権利を主張する労働者を排除するという状況であった。
このあいだに会社はなん億円という焼却炉をつくったり、高級な車を買ったり、労働者への搾取のうえにあぐらをかいてきた。
一九九五年に現在の二代目の社長がおもてにでてくると、だんだん様相がかわってきた。
まず仕事がきつくなっていった。それはD市が本格的にリサイクルにとりくんでいったことが大きな原因でもある。それまであった祝祭日がなくなり、かわりに土曜休みがもうけられた。そして週六日の収集が週四日になり過密労働がはじまった。それにくわえて市の委託と産廃の処理という二足のわらじをはいているので、午前中に市の仕事を終わらせ、午後は産廃の処理をするという基本方針を会社がとっているため、また出勤時間が三〇分遅れてしまったため、実働時間の短縮によりよけいに仕事がきつくなり、危険度が増してきた。労働者支配も露骨になってきている。
二代目はB氏のかわりにF氏をつかい、おもに独身者をひきつけている。かれは後日主任になった。会社のやり口に反発するグループと、会社に不満はあってもなんとか自分の安全を会社によりかかって確保しようというグループ(その中心にFがいる)とに大まかにわかれている。
しかし会社の攻撃は、賃金、有給、福利厚生などでグループを問わずかけられてきている。
一九九九年九月には会社は新人事制度なるものを導入しようとプロジェクトを発足させ、二〇〇〇年六月に導入した。これはそれまでの会社のさじかげん一つで給料がきまっていたものを、賃金体系をある程度明確にするという反面、個個人の能力に等級をつけ労働者同士をきそいあわせるという悪らつなねらいをもったものである。現在は主任のほかに会社によわみをにぎられている人物を責任者にすえようとしている。またグループは固定化してきている。
わたしはこのかん、個人的なつながりをもった労働者を『労働通信』の読者に組織して、会社の搾取、清掃労働者のたたかいの展望などを討議してきた。そして先進的労働者は組合結成を目標に動きはじめている。
具体的な行動をおこすまえに、職場の全労働者の労働と生活の実態、意識の調査、分析に力点をおいている。いま端緒についたばかりであるが、ここまで読者の意識が高まってきたのは、わたしの意識のなかにあった、「自分がやる」、あるいは少数の人数でもやるという新左翼的な発想と決別しなければできないことであった。
それは具体的には、「自分」が全社会が憎い、あるいはいくらか理屈を知っている、そのための方便としてマルクス・レーニン主義をつかう? という労働者の立場とは縁もゆかりもないしろものである。それは実践上では、資本との「激烈」 なたたかいをどうつくっていくかという発想法におちいり、会社に反抗的な労働者だけに目がうつり、まじめにはたらいている多数の労働者にこころをよせて、かれらにたよりことをはこぶという発想法になかなか転換できない結果をうみだした。また、口先では搾取されていることが団結の基準だといっているが、それは「自分」が、「自分」のとりえが全体のなかではうすくなる! という本末転倒した考えがあるし、それに満足している自分の甘さがある。
それは一〇年間つとめて収入もある程度おちついて、カミさんももらって世間体もついたし、この生活をこわしたくないという思いと、同時にまったく逆に走り、おれは家庭をすててでも運動をやる! という考え方――実際は労働と生活があり、それが運動の原点であるのに逆立ちした考え――が同居したものだ。だから、「自分」の決意をいえばいうほど、労働者がはなれていく、虹を追っかけるのとおなじで、追えば追うほど労働者がはなれていくという結果になってしまう。出発点が「自分」だから、のこったものも「自分」だけという現実の報いを受けてしまう。これらのあやまりを実践のなかでみんなの力で克服すべきである。
この発想法こそ、「新左翼」の解決すべき課題でもあると思う。これらのことを実践上で解決し、職場の労働者の過半数をどうするかという意識で、実際に全体の労働者のおかれている立場と気分、感情をともにできなければ、運動はセクト化するか、先細りになると思う。これは、この数年の活動の教訓でもある。