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現代資本主義の基本的矛盾――資本主義発展の歴史的過程について

『労働通信』2001年5月号

<5月号掲載分>

<7月号掲載分>=ホームページには9月掲載予定


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資本主義の 基本的矛盾は依然として存在している

 マルクス主義は、生産力と生産関係の矛盾が人類社会の基本的矛盾であるとみなしている。まさにこの基本的矛盾の運動によって、人類社会は、低い形態から高い形態へと発展してきた。

 資本主義の生産は、賃労働を基礎として社会化された生産である。資本主義社会では、この基本的矛盾は、生産の社会化と資本主義の私的占有とのあいだの衝突としてあらわれている。一面では、個人の生産手段がおおくの人に共同使用され、社会化された生産手段とかわり、しかし他の面では、生産手段と生産物が資本家の私的占有となっている。生産力の発展は、生産手段と生産物の社会化の度合を不断に拡大することを要求する。しかし、生産手段と生活手段における資本への属性の必然性は、幽霊のようにこれらの手段および労働者のあいだに横たわっており、生産の物的テコと人的テコの結合をさまたげ、生産手段が正常に役割を発揮することを許さず、労働者の人間らしい労働と生活をはばんでいる。大河の奔流を堰でとめようとしても、大河の流れがはばまれるか、堰が崩れるかのいずれかであり、これこそ、資本主義的生産様式の固有の矛盾であり、資本主義におけるいっさいの矛盾の根源である。

 戦後資本主義の発展は、一定程度、生産手段の私的占有による生産力への制約を一時的に緩和させたが、しかし、この矛盾は依然として存在している。もし、もっともひろい歴史的視野からみるなら、この矛盾が依然として存在しているだけではなく、さらにいっそう拡大のすう勢にあるということができる。その具体的あらわれは、以下である。

資本の集中

 資本は、いっそう集中されている。アメリカにおける一〇億ドル以上の資本をもつ大工業企業は、一九五五年の二二社から一九九二年の三一六社へと増加した。一〇〇億ドル以上の資本をもつ特大企業は、一九七〇年の二社から一九九二年の四九社へと増加した。それぞれ、一三・四倍と二三・五倍に増加した。一〇億ドル以上の大企業がもっている資本の工業資産全体に占める比率は、一九六〇年の二三%から一九九〇年の七一・二%へと高まった。三〇%の企業は、製造業全体の増加率の八〇%を占めている。資産の増加によって、利潤も大幅に増えた。

 アメリカの全企業利潤に占める資本金一〇億ドル以上の大企業が獲得した純利益の比率は、一九六〇年の三八%から一九九〇年の七三・二%へと上昇した。上位一〇〇社の企業の利潤は、三七万社の純利益の合計をうわまわった。

 イギリス、ドイツと日本の一〇億ドル以上の大企業は、一九六五年の一社から一九九一年の一九一社に増加した。一〇〇億ドル以上をもつ特大工業企業は、一九七〇年の一社から一九九一年の五六社へと発展し、それぞれ一九〇倍と五五倍に増えた。日本では、〇・九%の企業が八六%の資本を支配し、ドイツでは、一〇九社の大企業が六四・七%の資本を支配し、イギリスでは、四二社の大企業のなかで、もっとも大きい三社の企業が四二・二%の資本を支配している。

 少数の大銀行が、ほとんど全社会の貨幣資本を支配している。全世界における最大の五〇〇行の銀行のなかで、アメリカの銀行は、一九七〇年の一八五行から一九八〇年の九六行に減少した。しかし預金量は二九六〇億ドルから一兆三三億ドルに上昇した。最大の商業銀行一〇行の預金量が全銀行の預金量に占める比率は、一九五〇年の一五・五%から一九八〇年の三九%に上昇した。

 日本の商業銀行五行が全国の三分の二の預金を集中し、イギリスの商業銀行四社が全国の預金量の九〇%以上を集中した。少数の独占寡頭がしっかりと経済動脈をにぎっている。

 アメリカのゼネラル・モータース、フォードとクライスラーの三大企業は、アメリカの自動車生産量の九〇%を支配し、トヨタ、日産とホンダは、日本の自動車生産量の四分の三を支配し、ドイツのダイムラー・ベンツ、フォルクスワーゲン、BMW社は、ドイツの自動車生産量の四分の三を支配している。IBM、AT&Tなどの独占集団は、おおくの企業を吸収合併して、資本を何百倍にも拡大した。従来の一部の大財閥もけっしてさびしい思いにあまんじるわけにはいかない。たとえば、ロックフェラー集団は、石油業界から軍事、電子、化学、原子力、機械製造および運輸産業に手を伸ばし、モルガン集団は、鉄鋼工業から石油、電子、自動車、原子力などの業界まで拡張している。軍事産業から業をおこした三菱グループは、銀行、保険、重工業、化学工業、石油業界までに発展した。一部の家族的な大資本家と大銀行、大財閥は、たがいに株を持ちあうことによって、資本のいっそう大きな独占財団に転化し、生産を独占するだけでなく、原料、設計、販売網などの各部門を独占するようになった。分業と協業がいっそう細かくなり、生産、流通と交換が一体化され、さらに科学研究、文化教育、第三次産業も広範に社会化されたこんにち、生産手段のこのような高度な私的占有は、うたがいもなく生産力のいっそうの発展にとって重大な障害となっている。

資本主義の国有経済をどう評価するか

 これらはすべて、あらそうことができない事実であり、問題は、どのように資本主義国の経済発展を評価するかである。なるほど、戦後ほとんどの西側先進諸国には国有経済がつくられ、その生産比率は国内総生産の二〇%を占めたことがあった。しかし、われわれがすこし留意すれば、西側先進諸国の国有経済には二つのタイプがある。一つは、電力、交通運輸、港湾、電信郵便などの部門である。これらの部門は、投資規模が大きく、資本回収が長く、利潤率が低く、個別の資本家はやりたがらない、しかし資本家が資本を増殖するための基礎施設である。そこで、ブルジョア国家が前面にでて協調者の役割を演じた。それは、これらの部門に投資をおこない、資本家総体の利益を代表しようとした。

 もう一つは、石炭、鉄鋼などの伝統的工業部門である。これらの部門は、技術が古く、巨額な欠損となっていた。一部の資本家は、これらの欠損をになうことができず、しかもこれらの欠損に誘発される社会問題もまたすべての資本家の利益をきびしくおかすので、資本家の共同責任でになわざるをえないようになった。そこで、国家がすべての資本家を代表して国有化したのである。すべての独占資本に奉仕することは、つまりブルジョア国家の本質にほかならない。

 このほか、一部の西側先進諸国は、軍事と政治の必要から、軍事、宇宙航空、造幣および、高度技術研究などの部門にも、一部の国有企業を発展させてきており、これらは、いっそう資本家の全体の利益、とくにその長期的利益のためのものであった。

 ようするに、西側先進諸国が国有経済を発展させることは、資本主義的生産関係にたいしてやらざるをえない調整にほかならない。このような国有経済は、国有という二文字があるからといって全人民に所有されるものであるとはぜったいにならず、それが個別の資本家の所有から資本家全体の所有にかわったにすぎない。それは、私的所有制を変革しないばかりか、私的所有制を強固にしようとしており、資本主義の支配に触れないばかりか、資本主義の支配を強固にしようとするのである。「現代の国家は、その形態がどうであれ、その本質において、すべて資本主義の道具であり、資本家の国家が理想的な資本家の代表にほかならない。それは、ますますおおくの生産力を自分のものにし、ますます正真正銘の資本家の代表となり、ますますよりおおくの住民を搾取する」(マルクス・エンゲルス選集中国語第二版第三巻)。まさにエンゲルスが指摘したように、資本主義の国有制度を公有制度とみなし、資本主義が社会主義に変質しているとみなすのは、まったくばかげた話ではないか?

株式制度をどう評価するか

 問題は、さらに西側先進諸国の株式制度の発展をどう評価するかである。戦後の西側先進諸国のなかで、株を購入する住民の人数が増加し、いわゆる「株式の分散化」のすう勢があらわれた。西側の一部の学者は、これを「資本の民主化」と称して、株をもっている労働者や社員がすでに会社資産の「共有人」、すなわち資本家となり、資本主義がすでに「人民的資本主義」にかわったといっている。この数年来、このような論調は、西側においてますます凋落している。ところが、はからずも中国の一部学者のなかであたらしい市場が見つかったようである。なんと「株式制度のあらわれは、所有制の私的所有から民衆所有への発展を大いに促進している」とか、そして「民衆所有」が「べつの形態の公有制度」であるとか、このような議論は、それほどひどくないが一時期はやっていた。「株式の分散化」は、株式制度の私的性格を変えただろうか? 株式の性質を評価するのは、どのぐらいの人が株式を購入しているかをみるのではなく、株式参入者がどれぐらいの株式を所有しているのか、株式を支配しうる株式は、だれがもっているかをみなければならない。

 いま、アメリカという雀を解剖してみよう。この国では、一〇%の裕福な家族がすべての株式の八九・三%、債券の九〇・三%をもっており、五%のさらなる裕福な家族がすべての株式の八三%を所有し、一%のもっとも裕福な家族が全国の株式の六三%、国債の六三%を掌握している。しかし、「社員持ち株制度」に参加している一〇%の社員が所有している株式は、わずか〇・一%にすぎない。〇・一をどう評価すべきか? 一本の毛が象になるだろうか? このような持ち株者を資本家とするのは、まるで夢の世界の話である。とどのつまり、「株式の分散化」は、ほかでもなく、大金持ちが勤労者の消費資金をまきあげる一種の巧妙な手口にすぎず、そのつかい道がよりおおくの資本を支配し、掌握することによって、自己資本の投資の危険性をへらそうとし、労働者への搾取を強化することにある。アメリカの著名な経済学者であるサムエルソンは、「労働者がもっている何枚かの株券によってもたらす変化は、かれら自身の生活への影響にとっては、とるにたりないものである」(『経済学』)と指摘した。事実は、まさにそのとおりであり、大金持ちが膨大な配当金をふところにいれるときに、労働者、職員は、依然として自分の労働力を売買して生きていかなければならない。これこそが「株式の分散化」の事実にほかならず、いかなる人がいかにたくみな言葉をもちいても、この事実をおおいかくすことはできない。われわれ中国のこれらの学者が、強引にこのような株式制度を「公有制」といいふらすのは、どのような背景から出発しているのだろうか? それは、以下のようである。

経済のバブル化

 実体経済と記号(数字)経済のいちじるしい分離である。生産の絶え間ない拡大と有効需要の不足の矛盾を緩和させるために、戦後、西側先進諸国は、普遍的に金融自由化政策をとり、大大的に金融の投機活動を刺激してきた。大量の資本は、実体生産と貿易分野から金融と不動産業へと投機場所を変えることによって、有価証券、預金貸出、為替などの実体のともなわない擬制資本の激増をもたらした。一九八〇年から一九九七年まで、世界の株式市場における資本額は一三八八%に増加した。しかし、同時期における西側先進諸国の国民総生産は、わずか六〇%増加したにすぎなかった。九〇年代中期アメリカの三〇の工業株価ダウ平均指数の年平均成長率は二〇%を超えたが、しかし国民総生産の年平均成長率はただの三%前後にすぎなかった。現在、国際資本市場では、毎日の為替取引額が二兆ドルに達しているが、そのなかで生産につかわれているのは、わずか一〇%にすぎない。金融資本の高度な擬制化は、日ましに相対的に独立した記号(数字)経済をもった形態に変わりつつある。

 金融自由化政策および、それがもたらす金融拡張は、資本主義における基本的矛盾の運動の結果である。金融自由化の苦労が無駄ではないというべきであり、金融拡張および、経済のバブル化は、たしかにある程度過剰生産の矛盾を緩和し、おおいかくしたが、しかしより大きな時間、空間という範囲であたらしい矛盾をつくりだした。表面的な繁栄といきすぎた消費は、西側のいう「信用」および、第三世界の大量の安い商品の西側先進諸国への集中と移転という基礎のうえにうちたてたものである。金融拡張は、西側経済を大きく「借金経済」にかえさせ、実体経済のささえがない「借金経済」は、遅かれ早かれ信用危機を発生させ、経済全体の発展をおびやかすにちがいない。

階級関係の本質は変わらない

 階級関係の本質は、かわっていない。資本主義がどのように変化するにせよ、資本家階級の本質はかわることがない。かれらは、巨額な資本をもち、勤労者の剰余労働を、無償で占有し、かつ共同でわけあっており、なお名実ともに搾取者である。過去にくらべて、家族的資本と個人資本による企業支配という形態がいくらか変化しており、このなかで、一部は企業を直接に管理しなくなり、かわって株式支配や経営者をやとって企業を管理するという方法をとり、直接支配から間接支配にかわった。代理資本家の人数と役割は増大している、しかし家族的資本家と個人資本家の役割もまだきえているわけではない。かれらは、巨額な資本力と広範な社会的むすびつきにたよって、資本主義社会のなかで、なお「大吸血鬼」の役目を果たしつづけている。実際の生産過程に参加しない資本家は、手にある巨額な資本を利用して、証券投機活動に従事し、純然たる金利生活者と「正真正銘の社会的寄生虫」になりきっている。

 戦前に比較して、西側先進諸国の労働者階級の隊列にも小さくない変化がおこった。肉体労働者が減り、頭脳労働者が増えた。これはつまり人人がよくいっているブルーカラー、ホワイトカラーの逆転現象である。ホワイトカラー労働者はもうすでに労働者ではなく、「中産階級」に上昇しており、このような労働者の増加が資本主義社会における階級差別の縮小を意味するという見方はいま、国内外に存在している。

 これは、根拠のないでたらめでなければ、故意に階級分化と階級対立をおおいかくすための歪曲をおこなうものにほかならない。ホワイトカラーの収入は、ブルーカラーよりいくらか高いとはいえ、まだまだまずまずの生活を維持できるレベルに達しておらず、それほど豊かではなく、しかもいつでも解雇される脅威にさらされている。いったん解雇されれば、同様に生活が苦境におちいるのである。当然、そのなかのごく少数のものが経営者、高級技術者と総管理者などの高級職になり、所得がおおく、さらに一定数の株券をもっているが、しかしこのようなホワイトカラーは、すでに普通のホワイトカラーではなく、すでにブルジョアジーとその代理人に変質している。このきわめて少数の人が、どうして圧倒的多数の人を代表できるのか? 圧倒的多数の労働者にとって、その服の色にどんな変化が起ころうとも、かれらの賃労働という階級的地位を変えるものではない。マルクスは、『資本論』のなかではやくからつぎのように指摘している。

 「資本主義生産様式の特徴は、まさにさまざまなことなる労働、したがって頭脳労働と肉体労働、あるいは、頭脳労働を主とする、または肉体労働を主とするさまざまな労働を分離させ、ことなる人人にわけあたえている。しかし、この点は、物質生産品がすべてこれらの人人の共同労働による製品であることをさまたげるものではなく、いいかえれば、かれらの共同労働の製品が物質的財産に表現されることをさまたげない。他の面では、この分離は、この人人のなかのだれ一人として資本との関係においては、賃労働の関係であり、この特定の意義における生産的労働者の関係であることを少しもさまたげない」(『資本論』第一巻)。

 人人は、労働生産性の向上、資本主義のあたらしい発展にともなって、貧富の差もますます大きくなっていることを目撃してきた。アメリカでは、一九八〇年に、大企業の経営者資本家の所得は、普通社員の四〇倍に相当したが、いまでは、すでに四〇〇倍に上昇した。一九七三年〜一九九三年のあいだに、全国労働者の実質賃金が年率で〇・七%のスピードで下落してきた。これとあざやかな対照となるのが、億万長者の数がうなぎ上りに上昇していることである。雑誌『フォーブス』は、つぎのアメリカの長者番付において、四〇〇名のなかで二五〇名が億万長者となると予測した。

 このような現実に直面して、アメリカの「一九九〇年度大統領年次報告」ですら、「競争的市場の力は、七〇年代末から九〇年はじめまでの賃金の分配をますます不平等にし、一部の人人にいくら努力してもなお家族を養うことができないと感じさせた」と認めざるをえなくなった。

 いま、まったく財産をもたない家庭は、四〇%をしめており、おおくの家庭の借金は、微微たる財産を超えている。約二〇%の人人の生活は、貧困ライン以下におかれており、二〇〇〇万人以上は、充分な食糧がなく、二〇〇万人は、住む家がなく野宿している。五〇〇の都市のなかで、六人中に一人の貧困者がいる。死亡人口のなかで、六人中に一人の貧困者がいる。死亡人口のなかで、死因の半分が貧困によるものである。当時のニューヨーク市長は、レーガン大統領がいっていたようにアメリカが「山頂に輝く城である」というよりも、アメリカには「ふたつの城」が存在しており、一つは貧しい人のアメリカであり、もう一つは金持ちのアメリカであると嘆いていた。

(「労働通信」7月号に続く)

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