参考資料

資本主義はかならず滅亡し、社会主義はかならず勝利する

社会主義、資本主義発展の歴史的過程の総論について(上)

中国共産党理論誌『求是』二〇〇一年三月一六日号より

『労働通信』2001年9月号

 中国共産党の理論誌『求是』(隔週刊)は二〇〇一年二月一号より四回連載で現代資本主義を分析、批判する論文を掲載している。本誌では、このうち連載の第四回目の論文(三月一六日号掲載)を二回にわけて転載することにした。今回は前半部分である。


 世紀のかわり目、あたらしいミレニアムという重要な歴史の時点にさいして、われわれはおおくの読者とともに、落石があちらこちらにころがり、複雑をきわめ、紆余曲折している社会主義と資本主義発展の歴史的トンネルをくぐり、歴史の脈絡を探究しなければならない。今回まででこの旅はすでに一段落をつげている。より全面的に、より正確に社会主義と資本主義発展の歴史的過程を認識し、把握するために、それらを総合的に考えることが重要である。

大きな時代のなかで「二つの必然」のすう勢をにぎる

 一五〇年あまり前、マルクス、エンゲルスは、資本主義の基本的矛盾運動の分析を基礎に、資本主義はかならず滅亡し、社会主義がかならず勝利することをつげた。これは、われわれがつねにいっている「二つの必然」のことである。一〇〇年らい、世界歴史の発展はまがりくねっていたとはいえ、基本的にこの方向にそってすすんでおり、とくに第二次世界大戦後は、それは、まさに怒涛のいきおいであった。六〇年代のはじめ、アメリカ大統領ケネディーは、「時間はわれわれの友ではない」とさけんだ。

 しかし、八〇年代から九〇年代のかわり目に、世界の歴史にかつてない重大な曲折がおこった。凱歌行進中の国際社会主義運動が、谷間に転落し、危機にくるしむ西側資本主義世界にあたらしい変化があらわれた。この逆転に直面して、国際独占ブルジョアジーは、歴史はすでに終結したのだという昔日のあわれな思いをあらためなおしただけではなく、われわれの一部の幹部と大衆のなかにもあれこれのさまよいが生じた。これが、われわれが「二つの歴史の過程」を研究し、こたえなければならない現実の背景である。

 社会主義は、世界歴史に派生する枝葉でもなければ、むりに資本主義と世界をあらそうものでもない。それは、その本質において資本主義がみずからうみだす代替人であり、後継者にほかならない。いいかえれば、それは、資本主義の基本的矛盾が、資本主義制度の範囲内では根本的な解決がえられないことによってうまれてくる産物にほかならない。二つの歴史過程の問題は、とどのつまり「二つの必然」が成立するかいなかの問題であり、すなわち社会主義が、資本主義にとってかわる必要性があるかどうかの問題である。これにどうこたえるかは、資本主義における基本的矛盾の発展状況のいかんにかかってくる。

 たとえば現在の資本主義的生産関係が、すでに根本的にかわり、完全に社会的生産力の発展に照応しているなら、われわれは、「二つの必然」がさけることのできる偶然であるとみとめなければならない。また、かりに現時点の資本主義の生産関係が、完全に社会的生産力の発展に照応しなくなっているとしたら、こんにちの地球はすでに社会主義の世界となっており、ここでわれわれがわざわざ世界歴史の発展変化を議論する必要はない。眼下の資本主義の基本的矛盾発展の実際の状況は、生産関係が社会的生産力の発展に完全に照応しているのでもなく、また完全に照応していないのでもない、たがいに対立しあっているが、まだ崩壊の段階にはいたっていないというところである。たがいに対立する面は、あたらしい変化という外皮のもとに深刻な危機がかくされていることをあらわしており、まだ崩壊していない面は、自己調節をつうじて、具体的な変化の過程における部分的な繁栄の状況がなおつくりだされていることをあらわしている。

 これは、資本主義の私的占有というはやくから着ふるした服が、すでにそうとうぼろぼろになってはいるが、すこしつぎはぎをすれば、まだ生産力という、ふだんにおおきくなる体をしばらくのあいだ、つつみこむことができるということである。しかし、社会的生産力という体は成長しつづけており、つぎはぎをずっとつづけるのはむずかしい。おそかれ、はやかれ、あたらしいよそおいにかえなければならない。

 マルクス、エンゲルスは、歴史弁証法の大御所としてさすがにその名に恥じることがない。かれらは、一方で資本主義はかならず消滅し、社会主義がかならず勝利するという歴史のすう勢をあきらかにし、他方で全世界のプロレタリアートに、「一つの社会構成は、それが生産諸力にとって十分の余地をもち、この生産諸力がすべて発展しきるまでは、けっして没落するものではなく、あたらしい、さらに高度の生産諸関係は、その物質的存在条件がふるい社会自体の胎内でふ化されてしまうまでは、けっしてふるいものにとってかわることはない」(大月書店『マルクス・エンゲルス全集』第一三巻七ページ)とせつにおしえている。

 「二つのけっしてできない」と「二つの必然」は、ちょうど弁証法的統一体を構成している。これは現在と未来の統一であり、量的変化と質的変化の統一であり、科学性と革命性の統一である。それはわれわれに、しっかりとした、だんことした社会主義者になるためには、かならず両極端を克服しなければならないこと、「二つのけっしてできない」に直面したときに、「二つの必然」をぜったいわすれないこと、「二つの必然」をかたく信じると同時に、かならず「二つのけっしてできない」をゆるがせにしないことをおしえている。もしわれわれが、「二つのけっしてできない」に直面して、「二つの必然」という信念が動揺するなら、根本(ねもと)をうしない、方向をみうしなうことになり、綿胞子のように風に身をまかせ、たどるところを知らない。もしわれわれが、「二つの必然」をかたく信じるが、「二つのけっしてできない」をゆるがせにするなら、実際から遊離し、無謀にいそぎ、苗をむりにひっぱって大きくしようとする実践上の失敗をかならずまねくだろう。

 このような統一から出発するなら、われわれは、はっきりと「二つの必然」が実現する内的法則と、社会主義、資本主義が二つの制度、二つの運動として現実的な力くらべをおこなうことによってうみだされる歴史の現象とが、けっしてかんたんな直接対応関係にあるのではないということがわかる。

 現実に、資本主義の生産関係による毎回の自己調節は、その包容しうる社会的生産力をいっそう発揮させることになり、そして社会的生産力の発揮がまた資本主義的生産関係にある種のひかりかがやく資本をもたらす。現実に、社会主義の実践における毎回の失敗も、同様に社会的生産力の発展をさまたげ、社会的生産力をしばしばさまたげるが、これはうたがいもなく優越している社会主義制度に泥をかぶせることになる。社会主義、資本主義発展の歴史的過程において、以上にのべた二つの現象は、ともにさけられない。

 したがって、歴史の高所からみるなら、「二つの必然」の実現過程は、直線ではなく、螺旋(らせん)をえがいて上昇する曲線である。しかし、「二つの必然」実現の内的法則は、またべつのことがらである。
 「二つの必然」実現の内的法則とはなにか? すなわち、資本主義の生産力の発揮と社会主義の物質的条件の成熟とのあいだの連関および、その発展である。「世界史」という意義からいえば、これは同一歩調の漸進過程である。資本主義の生産力が一部発揮すれば、社会主義の物質的条件が一部成熟するし、資本主義の生産力を発揮すればするほど、社会主義の物質的条件がますます成熟する。資本主義に包容されうるすべての生産力が発揮しつくされた日が、つまり社会主義の物質的条件が完全に成熟するときであり、とうぜん、「二つの必然」の全面的な実現のときでもあるのである。

 これらは、つぎのようなことをわれわれにおしえている。世界史上における他の社会形態の進化と同様に、社会主義が資本主義にとってかわることも、大きな歴史的時代である。一八二五年、欧州において大規模な経済恐慌がおこったときから、「二つの必然」が徹底的に実現される日までは、すべてこの歴史的過程に属している。この偉大な時代のなかで歴史的進化の矛先がどんなにゆがもうとも、歴史発展の大きなすう勢をかえることはできない、黄河のようにおおくの湾曲をへて東の大海に帰さなければならない。歴史の高所にたってみるなら、こんにち、世界史上におこっている変化はじつにたいしたことでもなく、びっくり仰天するにあたいするものでもない。

 国際社会主義運動にあらわれる屈折は、社会主義が螺旋状に前進する途上における幕間の曲にすぎない。資本主義世界にあらわれているあたらしい変化は、「二つの必然」の実現の過程がいっそうすすんでいること以外のなんであろう? この意味において、時間は永遠に資本主義の友になりえないということである。

神話を突き破り、現実のなかで「二つの必然」の根拠を認識しよう

 一つは、科学技術という神話である。この神話は、金もちと貧乏人、富んでいる国と貧しい国の差の根源が搾取からくるのではなく、科学技術からくるのだと語っている。科学技術さえ発展すれば、貧しい人が金もちに追いつき、貧しい国が富んでいる国に追いつけるという。
 科学技術は第一の生産力として、とうぜん経済発展の重要なテコである。問題は、この生産力が空中に浮いているのではなく、かならず一定の生産関係に役だたせるものでなければならないということである。神話がおおいかくそうとしているのは、まさにこのことである。

 まず第一に、どうすれば科学技術を掌握できるのかである。科学技術を掌握するためには十分な人材と資金がいる。第三世界の諸国が十分な人材と資金を蓄積できるのは、搾取され、収奪されるという条件からぬけだしてはじめて可能となる。旧中国の科学技術は、世界のレベルから大きくたちおくれていた。その根本的な原因は、当時の中国が科学技術を重視していなかったところにあるのではなく、当時の中国が半植民地的半封建的社会におかれていたため、十分な人材と資金を蓄積できなかったところにある。新中国の科学技術は飛躍的な発展をえたが、その根本的原因は、われわれが科学技術を重視したところにあるのではなく、われわれが西側列強の搾取と略奪からぬけだすことで、必要な人的・物質的基礎をつくることができたところにある。

 第二は、科学技術によってもたらされる富をどのように分配するかということである。事実、資本主義制度のもとでは、あなたが生産関係のなかにおける支配的な位置にいなければ、たとえ科学技術をもっていても搾取される地位からぬけだして金もちになることはできない。
 著名なアメリカのソフト会社にかぎって例としてみよう。一九八一年には、基本ソフト(OS)の開発は、五〇〇〇万ドルの利潤となっており、一九九五年には、「ウィンドウズ?95?」を生産に投入して、この年の利潤が六〇億ドルになっており、一九九七年の利潤は一一〇億ドルに達した。二〇〇〇年には「ウィンドウズ2000」が登場し、利潤は二三〇億ドルとなった。利潤がうなぎのぼりに上昇したことは、高度な科学技術の巨大な力を自然にあらわしているが、しかしこのような巨大な力をだれが発揮したのか?

 同企業の社員数の変化をみてみよう。八一年には一二八人であり、九五年には一万七〇〇〇人、九九年には三万一〇〇〇人となった。利潤と社員数が同時に増大することは、超過利潤がいぜんとして搾取からえたことをしめしている。

 たとえば、「ウィンドウズ2000」は、開発にたずさわっていた五〇〇〇人からなる技術者が三年をついやして設計したものであり、さらに市場にでまわる前に一〇〇〇人を上まわる人が一年間をかけて修正したのである。かれらは、ときには週一〇〇時間仕事をした。しかし、社員のなかの少数の者は経営者として高給をえているが、圧倒的多数の社員の収入総額は、かれらが創造した利潤全体の端数にすぎない。開発にたずさわっていたこれらの技術者が科学技術をもっていなかったとはいえない。しかし、かれらは、どうしてビル・ゲイツのような富豪になれないのか?

 さらに科学技術はどのように発展し、どのように利用するのかということである。科学技術は、第一の生産力として社会的性質をもっているにもかかわらず、独占資本家が極力ひとりじめしようとしている。ヒトゲノム計画(ヒトの遺伝子情報の解析計画)は、一六カ国が参加する巨大な事業である。各国の科学者は、『国際ヒトゲノム宣言』の趣旨にもとづいて、遺伝子情報解析の成果が全世界に共有されることを強調するが、アメリカのセレラ社は、遺伝子の解読メーターを発明したことを口実にして、ヒトゲノム計画とあらそい、人類に幸福をもたらそうとする成果を自己の財産にしようとたくらんでいた。資本主義のこのようにどん欲な私的占有性は、科学技術のいっそうの発展をはばむだけでなく、科学技術の利用も極力制限し、そのうえ反人間的、反自然本質の邪道さえあゆんでいる。

 技術の進歩により、先進資本主義諸国の自動車生産は、すでに年産能力が二億台に達している、しかし世界市場には、九〇〇〇万台の販売量しかない。劣化ウラン爆弾などの殺人兵器は、うたがいもなく高度化学技術の産物である。

 結論ははっきりしている。

 一、貧乏人と貧しい国は、発展をとげようと思えば、当然科学技術をにぎり、発展させなければならないが、真に科学技術をにぎり、発展させるためには、まず先進的な社会制度を選択しなければならない。

 二、科学技術を天下おおやけのものにし、全人類に幸福をもたらす目的にしたがわせるためには、資本主義の束縛と歪曲から解放しなければならないということである。

 もう一つは資本主義制度の神話である。この神話について、われわれはこれまで比較的十分な暴露をおこなった。認識をいっそうふかめるために、ふたたび比較してもさまたげとはならない。

 一つは、資本主義と資本主義との比較である。資本主義に夢中になる人は、資本主義が人類にとってもっともすばらしい社会制度であり、貧困とたちおくれをかえる唯一の道であるという。資本主義制度さえ実行すれば、すわっていても天からふってくるカネを手に入れることができるという。もしあなたがうたがうなら、かれは、欧米をまわってみたらとすすめるだろう。どうして欧米にいかなければならないのか? それは、欧米が資本主義だからである。

 このように、論者は、意識的、あるいは無意識的に常識的範囲の事実をおおいかくしている。つまり欧米が資本主義世界の全部ではなく、資本主義世界の多数でもないということである。資本主義世界の圧倒的多数は、未発達であり、そうとうの部分は、はなはだしく未発達でさえある。世界の四八カ国のもっとも未発達な国は、圧倒的多数がすべて資本主義国か、資本主義をまねしている国である。一〇〇年前、世界の強国は米、英、仏、独、伊、日であった。一〇〇年後、世界の強国はなお、米、英、仏、独、伊、日である。一〇〇年のあいだに、百数十の国が前後して資本主義の道をあゆんできたが、そのうちの一国として強国になれず、世界の強国にならぶことができなかった。その原因は、いったいどこにあるのだろうか?

 それはほかでもなく、資本主義が資本主義であるということにある。「唯辟作福、唯辟作威、唯辟玉食」という中国のことわざにあるように、資本は、暴君とおなじように生まれつきのどん欲と専制の本性をもっている。自己増殖は、かれの生存するただ一つの目的であり、すべてを凌駕(りょうが)することがかれの唯一の行動方式である。このような本性は、団結互助、相互扶助などの美徳とは無縁であり、資本主義世界における弱肉強食の秩序を運命づけている。

 あなたは、つよい勢力の資本が支配する世界にはいりたいか? それでは、あなたは、国際垂直分業の底辺にいてもらわなければならず、つよい勢力をもつ資本のいっそうの増殖のためにはたらき、汗水をながさなければならない。これよりほかに選択肢はありえないのである。

 なるほど、東アジア、東南アジアの一部の国の経済成長は、かつて人人にうらやましがられていた。しかし、人人は、すでにつぎのようにさとった。それらの国は、けっして資本主義にたよって裕福になった模範ではなく、特定の国際環境のなかでの米英帝国主義による特定政策の産物にほかならないということである。この特定の国際環境とは、冷戦であり、この特定の政策とは、社会主義の玄関で資本主義発展のモデルをうちたて、社会主義を制裁する橋頭堡をつくろうとするものである。演技させる以上、いくらかのおいしいところをあたえないわけにはいかないというところだ。そうだとしても、底辺のはたらきという地位をかえるものではなく、月給がすこしばかり高いだけにすぎない。

 九〇年代にはいり、冷戦が収束し、ソ連・東欧が解体し、社会主義勢力がたいへんよわめられ、しかもアジア経済の隆盛のすう勢が、米英帝国主義の利益にある種の脅威を構成しつつある。そうすると、弱肉強食の悲劇がふたたび演出される。殺人の道具は、あの有名な「新自由主義」である。米英は、輸出への依存を利用して、それらの国が国家の関与、規制を放棄し、貿易、金融の自由化を推進するようさそいこむことによって、工業投資の低下、金融投機のホットマネーの急増、バブル経済の悪性的膨張をもたらしている。混乱しているあいだに、この地域の数十年の経済蓄積は、米英の投機資本に身ぐるみはぎとられた。

 独占資本のこのようなどん欲さ、残忍さと凶暴さに直面し、フランスの首相L・ジョスパンは、一九九八年に「嵐の時代がすでにきた以上、人人は、操縦できない資本主義がもたらすであろう危害を否定できなくなった。経済の自由主義、規制をうけないグローバル化と市場法則をもっとも鼓吹する人人でさえ、このことを否定することができない」、「資本主義のもっとも悪い敵は、資本主義そのものである」とのべた。

(次号につづく)

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