職場から労働運動をどう構築するか


東京東部労組 足立 実

『労働通信』2002年3月号

 『労働通信』京都学習会は昨年の一一月二三日、東京東部労組の足立実氏をまねいて「職場から労働運動をどう構築するか」をテーマに講演&交流会を開催した。講演の前半は、社会主義をめざす労働運動の大方向について(一月号に要旨掲載)、後半は反動的労働組合のなかで先進的労働者がいかにたたかうかがテーマであった。
 今号では、足立氏の講演の後半部分の要旨を掲載する。なお掲載にあたっては足立氏に加筆修正をしていただいた。

足立実氏講演の骨子

一、すべての道は社会主義に通じている

@社会主義は人類発展の法則
A社会主義は階級闘争の到達点
B「聖域なき構造改革」を徹底してやろうとすれば社会主義

二、社会主義革命をどう準備するか

@平和、民主、生活を守るためにたたかう
A改良主義に勝つ
B戦略的に重要な中小企業労働運動
C階級政党の建設

(以上は『労働通信』2002年1月号に掲載)

三、企業内組合の少数派から多数派へ

@臨時工の本工化要求
A住宅闘争
B組合改革
C子会社の組合結成
Dまとめ


(前号よりつづく)

三、企業内組合の少数派から多数派へ

  主催者から「職場の大衆闘争、組織づくり、とくに反動的労働組合のなかでどのように多数派を獲得していくかについて、具体的な経験を話してほしい」というテーマをあたえられていますので、わたしが企業内組合で活動していた時期の経験を二、三報告します。

 わたしは一九五八年、二九歳のとき中国から帰国し、東京南部の機械メーカーに組立仕上の臨時工としてはいりましたが、一年後公安が会社にきて、「足立は中国革命に参加していた」と密告されて、解雇になりました。当時、日本共産党の非公然党員でしたが、このほうはバレなかったので、五九年に東部にうつり、N食品会社東京工場に機械修理の臨時工として就職しました。

 この会社は、一部上場の業界大手で従業員は約二〇〇〇人ほどでしたが、工場の企業内労働組合の支部長は職員、役員は職制、地区労にもはいらず、選挙は民社、メーデーは野球大会という状況でした。わたしは公安の監視下なので、工場長に何回もよばれて思想調査をされました。

 職場にUさんという四〇代の板金工がいました。気骨があり、抜群の溶接技術、同僚に親切、政治をわかりやすく語り、事務所との交渉が上手で、みんなから信頼されていました。Uさんはレッドパージされた元共産党員でした。わたしはUさんを手本にみんなから信頼されるよう努力しました。角刈りを真似するほどでした。

 とにかく一人ではなにもできません。会社は大企業ですが、当時は低賃金・長時間労働でしたから、賃上げと組合改革を目標に仲間づくりを始めました。

 昼食のとき新聞の政治・社会面を読んでいるN君と飲み屋で話しました。六〇年安保が始まったころです。N君は敗戦直後、茨城の農民組合で活動したころ共産党にはいったことがあり、「工場のK君は元共産党のシンパだ」と連れていってくれました。K君はよろこんで入党しました。これで三人の核ができました。

@臨時工の本工化要求運動

 当時工場には臨時工が三十数人いましたが、わたしが思想調査のために本工になれないので、あとからはいった人は六カ月の試用期間がすぎても本工になれず不満がうっせきしていました。三人は臨時工にはたらきかけて本工化を要求する運動をおこしました。この運動のなかで三人の青年が入党して工場細胞を結成し、大衆闘争の核が強固になりました。臨時工のおおくは縁故入社だったので、紹介者を突きあげるという戦術で運動を本工にひろげ、組合も無視できなくなり、会社は全員を本工にしました。

 この闘争のもう一つの成果は、三十数人の青年の自覚と行動力が高まり、その後の組合改革の主体となったことです。わたしがこの運動から学んだことは……

 @労働者は自分の利益を守るために、かならずたたかいにたちあがるという大衆への信頼

 A工場の矛盾を調査・分析して、aなるべく広範で、b切実で、c自分の力で運動化できる矛盾を一つさがしだし、主動的に運動をおこせば勝利できるということでした。毛沢東の『矛盾論』の主要矛盾の分析方法はたいへん役にたちました。

A住宅闘争

 この闘争は夜勤のときよく居眠りする中堅労働者のF君とわたしの話からはじまりました。彼は六畳一間のアパートなので、赤ん坊の泣き声で昼間は睡眠がとれずやせ衰えたと訴えました。わたしは組合員の家を何軒か訪問調査し、おなじような状態にある人が二十数人いることを知りました。なかには四畳半一間に親子四人が生活し、赤ん坊をミシンの上の段ボール箱のなかで寝かせている家庭もありました。

 六三年、工場細胞は「住宅困窮を解決せよ」という運動を改革派とともにおこすことを決定しました。F君が職場懇談会で「このままだと病気になってしまう。会社に社宅を建てさせよう」とうったえ、おなじ境遇の労働者も口口に窮状を訴え、運動は大多数の労働者の支持のもとに支部執行部の妨害をうち破って発展し、支部結成いらいはじめての団体交渉や大衆的要請行動がおこなわれ、工場長も本社に社宅建設の陳情書をだしました。

 住宅闘争は中堅労働者の要求なので、組合改革派は中堅労働者にまでひろがって支部の過半数をしめ、さらに三〇代の三人が入党して核が強化され、足立と党員のR君が執行部に、改革派が職場委員の過半数をしめるようになりました。

 本社が社宅建設を認めないので、支部は組合の全国大会に議案をだしました。本部執行部が議案をとりさげさせようと東京支部に圧力をかけにきたのですが、組合員は彼らを包囲、糾弾して追いかえし、臨時大会には支部全員のカンパでオブザーバー団をおくって訴えたので、大会は執行部の反対をおしきって住宅闘争議案を満票で決定し、交渉員の一人に足立が選出されました。対本社交渉と同時に全国で支部交渉が開始され、二年後に東京工場の社宅が落成して住宅困窮者が入居し、各工場もそれにつづきました。

 この闘争の教訓は、当初五人の工場細胞でも、主要矛盾をとらえて方針化すれば、支部の一五〇人の運動から全組合員一七〇〇人の大衆闘争に発展させて要求を実現し、同時に組合改革を前進させることができることを証明したことでした。

 ついでですが、わたしは仕事はまじめにやりました。この時期に輸入機械設備の運転に貢献したことで、戦前一人戦後一人という社長表彰をもらいましたが、これはとくに労働者のおくれた部分へ影響をひろげました。

 みなさんは職場のなかで少数派です。組合の役職についている人も何人かいますが、職場に大衆運動がないという話でした。そこでこのときわたしがどういう職場分析をしたかについて話します。みなさんが職場の分析をするときの参考にしてください。
 会社のなかにはいろいろの矛盾がありました。しかし主体の核は弱小です。

 @賃金要求は切実で普遍性があるが、支部に交渉権がなく運動化しにくい。

 A人員補充も切実な要求で階級教育にも有利だが、核の力では運動化しにくい。

 B福利厚生の要求は組織しやすく成果もあげやすいが、階級教育の内容がとぼしい。 

 C御用組合幹部への不満は強いが、この問題は労働者の利益をまもる具体的闘争のなかで批判し、克服すべきで、単独の闘争をくむことは妥当ではない。

 この点住宅闘争は大衆闘争化できる有利な条件がありました。

 @三交替労働のもとでは、もっとも深刻で切実だ。

 A少数者の要求だが、大衆的同情がえやすく階級連帯の思想教育にも有利だ。

 B経済闘争だが政治と密接な関係があり、政治教育に有利だ。

 C組合の官僚主義を大衆的批判で克服し、組合の階級化・民主化をすすめるうえで有利だ。(大衆は発言しやすく、御用幹部は反対しにくい)

 D人権がらみなので会社も公然と反対しにくく、成果をあげやすい。
 つまり住宅闘争は、この会社のこの時点における主要矛盾だったから、これをつかんで闘争を発展させ、要求を実現しただけでなく組合改革という副次的矛盾の解決を容易にしたのだと思います。大衆闘争はやはり科学だと思います。

B組合改革

 工場細胞(核)は、経済闘争を改革派の労働者とともに先頭にたってたたかうと同時に、労資協調主義的体質の組合を、階級闘争の立場にたって大衆闘争をたたかえる組合に改革するためにいろいろ努力しました。おもな例をあげると……

組合本部激励(一九六一年)

 本部のなれあい賃金交渉への対策として、各班一〇人で酒を一本もち、毎週本部宿舎を「激励訪問」し、酒を飲みながら本部役員に「妥協するな」と口々に要求した。三回やったら「もう来ないでくれ」といわれたので、職場集会の発言をテープに吹き込んで「これを社長に聞かせろ」と要求した。団体交渉の席上でまわされたテープの末尾が大音声の「ガンバロー」の歌だったので、本社は大騒動になった。この年の賃上げは前年の三〇%増で、組合員は大衆行動の成果に大いに自信をもった。

職場座談会をひらけ(一九六二年)

 工場細胞が企画し、支部委員会で決定した。やってみると意見・要求がおおくだされ、組合員の解放感が高まり御用支配を大きく崩した。

メーデーに参加しよう(一九六二年)

 以前は野球大会だったが、この年から中央メーデーに参加し、企業の外の空気にふれるようになり、地区労に加入して地域との交流もはじまった。本部も産別組織に加盟し、こういう流れのなかで非公然の工場細胞のよびかけで横須賀や横田の基地反対デモに改革派の青年とともにいくようになった。

政党支持の自由を保障せよ(一九六三年)

 従来は民社・社会の候補を推薦していたが、この年の総選挙は支部委員会が社共両党を公然と支持したので、共産党に投票した組合員は一〇〇人をこえた。

要求は大衆的にきめよ(一九六三年)
 以前は賃金要求を少数の役員が作成して本部に提出していたが、この年から全組合員からアンケートをとって公開し、学習会をひらいて大衆討議で決定することにしたので、組合員の要求を具体的に反映するようになった。

支部新聞の発行(一九六四年)

 大衆的な編集委員会をつくり、闘争方針の徹底、階級教育、大衆の声の反映を編集方針に、みんなで取材、編集、印刷、配布した。

反共攻撃の撃退(一九六五年)

春闘の時間外拒否で収入が減り、組合員のなかに動揺がうまれた。勤労課は一部の職制をつかって職場大会で改革派にはげしい攻撃をあびせ孤立化させた。

 工場細胞は全員が決起し、改革派とともに家庭訪問にまわった。ほとんどの家族がわれわれを支持したので組合員もわれわれに団結した。その過程で組合員の通報で会社の陰謀が発覚したので、手先になった職制を追及し謝罪させ、支部の団結をとりもどし、組合ではじめてのストライキを全員の結集でたたかい、大幅賃上げに成功した。

 失敗した会社は、ふたたび職制をあつめ、御用幹部による執行部づくりへの協力を強要したため、支部大会で足立は執行部に選ばれたが、改革派は大きく後退し、職員・職制が代わって執行部・委員会の多数をしめた。

労働学校の開催(一九六五年)

 毎週土曜日、応募者一〇人、教材「現代の合理化読本」、司会・足立(教宣部長)。 マルクス主義の立場・観点・方法の学習。

米軍のハノイ爆撃抗議職場集会(一九六六年)
 はじめて政治闘争に正面からとりくみ、職場集会で足立が報告をおこない、南ベトナム解放民族戦線とこれを支援する北ベトナム人民の抗米救国闘争への支持と反戦闘争への参加をうったえた。……

C子会社の組合結成

 われわれの工場に隣接して子会社のN食糧東京工場がありました。従業員は一六〇人、平均年齢は二一歳。女性が三分の二をしめ、低賃金で権利状態も劣悪でした。

 六四年、工場細胞はN食糧の組織化の方針をきめて約一年間調査し、同時に支部定期大会の運動方針に「近い将来N食糧の組織化を実現する」という文言をいれさせました。のちに御用幹部がわれわれを攻撃したとき、「おれたちは運動方針をまじめに実践しただけだ」と反論したので、かれらはなにもいえませんでした。

 六五年一月、足立がN食糧工場訪問のなかでボイラー工のA君をオルグし、翌日彼の先導で独身寮の青年六人に「組合を結成して自分たちの力で賃金・労働条件の向上をかちとろう」とうったえました。労働者たちは不満の出口をみいだし、二週間後には四〇余人が結成準備会に参加しました。結成の準備は、会場の確保、経過報告、要求と方針、規約、執行部名簿、大会宣言など、いっさいをN食糧の労働者にやらせました。会社に通報する者は一人もいませんでした。

 結成直前、改革派四人で足立を長とする結成対策委員会をつくり、支部長の承認をとったが、職員の執行委員が知ると会社にもれるので知らせませんでした。

 結成当日、緊急支部執行委員会をひらいて本日結成することを報告し、その足で執行部全員がN食糧の工場に行き、会社幹部をあつめて、「わが支部はN食糧の組合結成を支持する。不当労働行為をするな」と通告しました。

 同時刻に工場内では加入の署名がおこなわれましたが、会社幹部がわれわれのところにいるので妨害できず、圧倒的多数の一三二人が署名しました。

 翌日おおくの支援労組の見守るなかで結成大会をひらきました。N食糧の青年男女がいっさいをとりしきったので幼稚さはさけられなかったが、情熱と活気にあふれ、自分たちの手で組合をつくったという自負にみちた大会となりました。

 会社はあわてて職制をつかってさまざまなきりくずしをしましたが、自分たちでつくった組合なので自信をもって反撃し、労働者の団結権を確立しました。

 しかしわたしの方は、会社の意向を受けた御用幹部から、職員の執行委員に知らせなかったのは非民主的陰謀だと非難され、対策委員会は解散、わたしがN食糧労組と接触することも禁止されました。

 工場細胞はN食糧労働者のなかから三人を入党させて細胞を結成し、二つの細胞で総細胞を編成して、わたしが総細胞長になり、非公然ルートをつうじて、N食糧労組にたいする指導を回復し、維持しました。

 この組合は二年後の六七春闘で大ストライキを敢行しましたが、わたしは中央の書記長になっていたので、公然と張りついて援助することができました。

 闘争委員会でわたしは七二時間ストライキを提案したのですが、二〇歳そこそこのT君は「三交替の各班の二時間ストで十分だ」というのです。スパゲッティ製造機の電源を切るとシリンダーのなかでスクリューでこねている小麦粉はコンクリートのようにカチカチに固まってしまう。機械を分解して掃除をするのに六時間はかかる。交替した次の班がストにはいる。三回やれば二四時間ストとおなじで賃金カットは少ないというわけです。午後一〇時、会社に二時間ストを通告して電源を切りました。六時間かけて掃除し、午前七時に交代した班が二時間ストにはいりました。

 ストライキには入院中の一人をのぞく全組合員が参加しました。わたしは「ストをやると女性の生理はとまるのか」とひやかしました。全員が正門から事務所まで二列に並んで、そのせまいすき間を通る会社幹部に両側から要求をあびせました。午後は半数が銀座の本社ビルに下駄で駆けあがってシュプレヒコールをやり、嵐のような大衆闘争になりました。会社は組合の要求を受け入れ春闘は勝利しました。

 わたしがこのストライキから学んだことは……

 @労働者は強く団結して勇敢にたたかうことができる
 A大衆の知恵は戦術の最良の源だ

 わたしに大衆路線の生きた教育と貴重な戦術経験をさせてくれました。

Dまとめ

 わたしは一九六六年に組合の中央書記長にえらばれて工場を離れました。ですから以上がわたしの工場時代七年間の「少数派から多数派へ」の経験ですが、ここでいくつかの教訓を整理してみます。

1、大衆を信じる

 N食品の臨時工の本工化運動と住宅闘争、N食糧の組合結成とストライキは、「労働者はみずからの利益を守るために、かならずたたかいにたちあがり、そして勇敢にたたかう」ことを証明しています。大衆は自分自身のたたかいの経験をつうじて意識を変革し、組合を階級闘争の組織に改革していきます。これを信じて大衆と結びつき、大衆自身が運動をすすめたので、少数派から多数派になれたのです。大衆を信じない者は孤立から脱却できないと思います。

2、戦略・戦術

 戦略構想が必要です。わたしの場合、「労働者の利益をまもるたたかいと組合改革をむすびつけ、階級闘争の力を拡大強化する」ことでした。

 戦術は、戦略を実現する途上の障害を克服する大衆闘争の具体的方法ですから、だから「敗けるたたかいをさけ、勝てるたたかいは主動的に断固として勝利をかちとり、主体的力量を拡大する」。こういう観点でおおくの戦術を考えて実行しました。

 そして主体的力量の拡大に比例して、だんだん大きいたたかいをくんでいきました。

 戦略・戦術は主観的願望から出発するのではなく、工場の具体的な状況の調査をつうじて、さまざまな矛盾の関係を研究し、とくに主要矛盾を当面の中心任務にすえて力を集中しました。

3、大衆に学ぶ

 わたしは大衆と結びつくためにUさんを手本に努力しました。住宅闘争の出発点はF君の訴えでした。方針はまず大衆の話を聞いて調査することからはじまります。

 戦術の源も大衆のなかにあります。二時間ストライキの戦術を提案したのはT青年でした。わたしの役割はこうした大衆の話を分析して方針・戦術化したことです。

4、核の役割

 どこにもかならず先進・中間・おくれた部分があります。この工場の先進は改革派、おくれた部分は職制・職員、あとの労働者は中間でした。だから「先進に依拠し、中間と団結し、おくれた部分を引きつける」という法則性にもとづいて運動をすすめ、少数派から多数派へ転化できたのです。

 改革派の核は工場細胞でした。副細胞長のK君をはじめ、十数人の同志は、みんな仕事でも活動でも大衆から信頼され、革命的風格をもった労働者で、わたしたちは兄弟のように団結して、討議し、ともにたたかいました。このような工場細胞の存在なしに、きょう報告したような活動は一日たりとも成り立ちませんでした。

 核の条件は、@革命性、A戦略・戦術の策定、B大衆闘争の組織者だと思います。

 とにかく組合運動には、名前は何であれ、こういうマルクス主義の階級闘争・大衆路線の立場・観点・方法をもつ核がなければ持続的で目的意識的な運動は不可能です。

 そしてこの核が全国的な統一した運動とむすびついたとき、社会主義をめざす運動の一部分をになうことができるのだと思います。

 以上は、わたしの三十数年前の経験ですが、その後東部労組のなかで、いまにわたるまでわたしの活動の土台になっています。みなさんの「少数派から多数派へ」の活動のお役にたてば、これほどうれしいことはありません。

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