子供と教育はどこへいく

 

「不況型非行」と地域の体力

京都市在住 アクティビティ
かさい ひろこ

『労働通信』2002年5月号

 年端もいかない子供達の凶悪な犯罪行為がメディアを騒がせ、また世の中というものに傷つけられ社会を恐れて引きこもる青少年たちが話題になるようになって、既にかなりの時間が経過しています。こういった問題に対処するものとして、今年度から「こどもたちの生きる力を、地域社会が涵養(かんよう)する」として、学校五日制が実施されるのですが、現代日本のこの状況下において、地域社会は子供達に何かを伝えるだけの体力を保持できているのかはなはだ不安に感じています。

焦りや苛立ちからクラスメートへの攻撃へ

 わたしがこの事について真剣に考えるようになったのは、小学校に通う二人の息子たちへの「いじめ事件」が発端でした。一見、取るに足りないような些細なことを「ムカつく」として、集団で、しかも教職員の目を巧みに避けながら執拗な暴力が振るわれていたことに気づいたわたしは大変驚愕(きょうがく)し、また激しく憤って学校ならびに教育委員会に申し入れを行い、話し合いの結果、教育委員会の機関において継続してカウセリングと相談を受けるようになりました。何度目かの相談のとき、相談員の方が「不況型非行」という言葉を口にされたとき、わたしは我が子がこうむった理不尽すぎる暴力の背景にあるものをかいま見たように思い、また同時に、今わたしたちがある社会のあまりのぜい弱さを感じて呆然としたのです。
 相談員の方は「不況型非行」が具体的にどのようなものかは明らかにはされませんでしたが、やはり思い当たる部分は多々あります。それは子供達が今置かれている社会を構成するわたし達自身が、日頃から感じている不安や焦りと密接に関連していると実感できるからです。またそれは、わたしが暮らしている地域の特性とも関連が深いと思われます。

 子供達が通う小学校の児童の大半は在日韓国朝鮮人で、最近は中国人やフィリピン人を親に持つ子も増えています。親たちの職業の多くは飲食店や建築関係などの自営や中小企業勤務などであり、これは不況の影響をもろに受ける立場でもあります。それは社会の底辺に近い存在として見られることもありますが、しかしたとえそういう立場であっても、現在小学生くらいの子を持つ親の世代は「消費のたのしみ」を十分すぎるほど知っており、世間並みの消費行動ができないことに不安を感じる傾向が強くあるようです。

 いまどき、持ち物や着ているものなどから生活水準や貧困の度合いをおしはかるのは困難なほど、どの地域においても大人も子供もこざっぱりとしているし、流行の衣類や玩具などは当然のように誰もが持ってはいるようですが、けれどもそれらの消費を維持するには並大抵の努力では追いつかないだろうとわたしなどは感じています。けれども大人も子供も「世間なみ」の消費を追い求めることにやっきになっている。というのも、消費というものは具体的で明確であって、思いやりや知性、また感受性に裏付けられた個性などというものよりもはるかに単純で、共通の理解を得やすい基準であるからでしょう。

 たとえば、あるブランドの腕時計があったとして、その腕時計はそれを購入するのに必要な対価さえ支払えば、どの国籍どの民族、またどの地域のいくらくらいの年収のどういう年齢性別の人であっても手に入れることができ、身につけることができます。そういった点では消費は平等であるということができるかもしれませんが、でもその消費行動を維持できるだけの体力は誰しも同じ基準にあるとはいえず、またその体力は飛躍的に向上する期待に乏しく、それよりも体力の目減りに不安が募ることの方がはるかに多いことでしょう。そんな中で、大人も子供も焦りと苛立ちを積もらせていっているように感じます。そしてその焦りや苛立ちは、この社会や社会の制度、制度を作ったものたちへではなく、身近な隣人やクラスメートたちを攻撃の対象としてしまっているようです。

社会に見えない鉄条網

 社会のどこかに見えない鉄条網が敷かれていて、その下にあるものはとことん同じ立場にあるもの同士でののしりあいつぶしあい、その上にあるものは下にあるものの存在を軽侮し無視する。階級分離が、これまでの政治思想では予期しえなかった範囲にまで広がっていると感じます。

 この無惨な現実に太刀打ちできるだけの知恵や体力を確保する場を、どうやって作り出せばいいのでしょうか。地域は生活というより消費の舞台となり、子供たちは生活を学ぶ場と機会を確保されないまま、荒れ果てて空洞化しつつある「地域社会」に追いやられつつあります。そこで子供達が知り、学ぶのは、協力ではなく対立、協同の意思よりも誰かを押しのける技量、信頼とわかちあいよりも出し抜きあいに有利になるタフさ、というものになるのではないかと不安が広がります。

 一般にわたしたちが「社会性」というとき、そこには道徳規範が含まれていると認識しているものと思われます。今日びの若者には社会性が欠如している、などという場合、その社会性は「よりよい道徳性」としての意味で語られるのがほとんどだと思います。行政が子供達に期待するという「生きる力」は、そんなよりよい道徳性というものが前提になっているのでしょう。けれども、よりよい道徳などというものは雑草のように勝手に生えてきて自然に広がるようなものではなく、また子供らも誰かに示されることがなければ自発的に手に入れ身につけることができるものではないでしょう。

 子供らに、行動や判断のしるべとなるものを示し導くのは、社会を構成する者の責任ではないでしょうか。先にわたしに「不況型非行」という言葉を出された相談員さんによると、優しく思いやりがあり丁寧な言葉遣いで話すおとなしい子供より、わがままでで乱暴な子供の方が「社会の中で生き抜く力」をより多く持っているとのことです。

 ここで言いたいのは「優しい子=よい子」「乱暴な子=悪い子」などという単純な区別をするものではなく、他者への関心を勝ち負け以外の部分で持つ子は生きていくのが厳しい社会になっている、ということです。そしてこのような社会は、わたしたちがそれこそ一生懸命に作り上げてきてしまったものです。現状がそもそもわたしたちが意図してきたものと違う、こんなはずではなかった、などというのはもはやいいわけにもならないかと思います。わたしたちは社会の構成員として、このような社会を構築してきたのです。これから先、新たに社会を構成することになる幼い子らに、そのまま手渡すにはあまりに申し訳なく恥ずかしいものです。

「生きる力」の中身を問う

 これからの子供たちに、優しさや思いやり、不正とは何か、歪みに対して立ち向かう姿勢、命の大切さや、生活の意味と意義など、人としてよりよいあり方とは何かを伝え、ともに学んでいくにあたって、わたしたちに一番必要なものが今一番足りないとわたしは感じています。それは、行政がいうところの、教育制度としての「ゆとり教育」などというものではない、本当の意味での時間と心のゆとり、ゆとりをゆとりとして使えるだけの裏付けとしての生活保障だと考えます。働くことは生きること、ではありますが、働くこと「が」生きること、ではないと思います。生きることはもっと幅広い意味を持っていてしかるべきではないでしょうか。

 わたしたちは何事につけ「勝ち取る」ことばかりに邁進しすぎていたのではないかと思います。勝つか、負けるか、という二者択一でしか物事を考えることができなくなっていたのではないかと。生活の場で、勝ちや負けはどこまで重要だったのでしょうか。生活のためにどこかで何かの「勝ち」を得ることに夢中になっている間に、生活の場は生活の目的を見失い、社会の中での「生活の喜び」が意味を変えてしまっていたのではと不安に駆られます。いま子供たちが何を生活として認識しているか、今いちど確かめ、本当にわたしが子供達に身につけてほしい「生きる力」の中身を改めて見直したいと考えています。

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