書評

大きな歴史の流れのなかで社会主義を考える

伊藤誠著『現代の社会主義』
講談社学術文庫

評者 河上 清

『労働通信』2002年5月号

 国学院大学教授・伊藤誠氏の『現代の社会主義』(講談社学術文庫)は、ソ連、東欧の崩壊直後の一九九二年に出版された本であるが、いまなお、社会主義について考える労働者、活動家、知識人にとって、おおくの理論的示唆をあたえてくれるものである。

 伊藤氏は「序言」で、ソ連、東欧諸国の崩壊について、「それは社会主義に希望を託して積み重ねられてきた多くの人々の努力や犠牲にてらし、心の痛む歴史の経験といわねばならない」としたうえで、「あらためて社会主義の可能性の論拠を再考し、人人のこころをとらえる豊かで確実な認識と思想の輝きをもって、その論拠を準備し、提示する協同の試みがくりかえしされなければならない」と本書の目的をあきらかにしている。

 本書の内容は、大きくいって三つの部分にわかれる。

 第一部「社会主義とは」では、社会主義思想や運動のなりたちについて歴史的にふりかえり、人類解放の思想としての社会主義とはそもそもなんたるかをあきらかにしている。

 第二部「社会主義の理論」では、これまでに歴史的に論争されてきた社会主義にかんする理論問題を概略的に整理している。とくに、社会主義の「理想」が実現されたはずのソ連でなぜ労働者、人民大衆にたいする抑圧的状況がうまれたのかという問題や、そもそも社会主義「計画経済」が合理的に存立不可能であるとするハイエクなどのブルジョア経済学者と社会主義者との論争などをとりあげている。

 第三部「社会主義はいま」では、現存の社会主義国における「改革」の現実とその方向性についてふれている。

 本書全体の内容を評論するだけの力はないが、私なりに興味深く感じた点をいくつかのべてみたい。

 一つは、伊藤氏がマルクス主義をはじめとする社会主義の理論や運動を非常に広く大きな歴史の流れのなかでとらえようとしていることである。
 富と貧困があることが悪であると説いたプラトンや、江戸時代の安藤昌益をはじめ、社会主義思想が生まれる以前から、人間社会の不平等を憎み、民衆の解放をもとめる思想は人類の歴史のなかに脈々と受け継がれてきた。そうした流れのなかで、一八世紀にヨーロッパで空想的社会主義の諸流派がうまれ、それをマルクスが批判的に総括して科学的社会主義をうみだした。伊藤氏は、そのすぐれた特徴として、@唯物史観を「導きの糸」とする経済学の研究によって資本主義経済の運動の原理を体系的に解明し、A唯物史観と「資本論」にもとづき社会主義実現の担い手としての労働者階級の役割をあきらかにしたことを指摘している。そして、「マルクスによる社会主義は、より広く多様な社会主義の諸潮流のなかにうまれ、それらの思想や運動を強化する任務を有していた」が、その後、社会主義の一形態にすぎないソ連型社会主義がマルクス主義の唯一絶対のモデルとされてしまったとのべている。だが、ソ連が崩壊した今、マルクス主義はソ連型の教条的束縛からはなれて、あらためてその広い可能性を考え得る状況にあるとのべている。これは、本書全体につらぬく観点である。

 二つめは、かつてのソ連をどうとらえるかについて、これまでさまざまな潮流がだしてきた論点を整理している点が興味深い。伊藤氏は、ソ連を基本的に社会主義国あるいは労働者国家であるとする流れと、もはや社会主義国ではなく一種の階級社会であるとする流れとに分類し、それぞれの論点のなかでもいくつかの見解があることを紹介している(別表は評者が作成)。伊藤氏自身は、どちらかといえば生成期社会主義論と新階級社会論の双方のよい論点を結びつけようとしているように私には思えた。

かつてのソ連評価をめぐる社会主義理論の類型
基 本
評 価
類 型 代 表 的提 唱 者 主 な 論 点
ソ連は基本的に労働者国家あるいは社会主義国である  生成期社会主義論 藤田勇 ソ連社会に存在するさまざまな問題は、世界史的に社会主義がなお初期の生成期にあることから生じている。国家の肥大化、労働者の抑圧は、資本主義世界の軍と国家の強大化に対抗して生じた
スターリン体制論 ロイ・メドヴェーデフ ソ連人民の抑圧状況はもっぱらスターリンの個人的資質や誤り、個人崇拝から生じたものである
官僚代理人労働者国家論 L・トロツキー ソ連社会の後進性ゆえに、専門家層が労働者の代理支配人として特権官僚を形成している
ソ連はもはや社会主義国ではない  国家資本主義論 S・ペトレーム、文革期の中国 ソ連には一種の資本主義が復活し、国家ブルジョアジーが支配階級として成立するに至った
新階級社会論 P・スウィージー、S・アミン 資本主義でも社会主義でもない新しい階級社会が形成された。支配階級は、教育機関や昇進制度を通じ国家機構を介して特権的地位を後続世代にわたって維持再生産する

 わたし自身は、かつてはソ連=国家資本主義論(あるいは社会帝国主義)にたち、さらにいえば文革終結後の中国もひたすら資本主義の道を歩む国という評価をくだしていた。そこには、特定のモデルを唯一絶対の正しい社会主義とする考え方があったと思う。

 だが、かつてのソ連はいろいろな問題をかかえていたとしても、人民大衆が生活を保障される社会主義の枠組みが基本的にはのこっていた。中国の場合は、社会主義市場経済というかたちであらたな社会主義のモデルをうちたてようとしている。

 三つめは、社会主義と市場の問題についてである。伊藤氏は、これまでの論争を紹介しながら、かつてのソ連型の集権的計画経済だけが唯一の社会主義モデルであるとする論点はもはや説得力をもたなくなっているとして、@社会主義のもとでのかなりの期間にわたって商品経済を組み入れていかなければならない、Aしかし、その利用は、この作用を廃棄し、意識的な計画におきかえていく方向でおこなわなければならない、Bその過程で民主的な意志決定のプロセスや情報公開などが必要である、とのべている。

 あるいはまた、市場経済を排除した社会主義経済が、自由な人々の結合体として実現されるというマルクスの論点を「原理的基準」としてくりかえし参照すべきではあるが、当面実現可能な社会主義経済モデルは、「原理的構想とは次元を異にするいわば段階論、ないし現状分析的考察次元」として考えなければならないとも説いている。

 同時に伊藤氏は、市場を利用する問題をとくあまり、集権的計画経済そのものを全面否定し、また、一九五〇年代までソ連がこのモデルのもとで急成長し、人々の生活を豊かにしてきたことまで否定する論点には警告を発している。

 四つめは、伊藤氏が日本資本主義の現実――貧富の格差のひろがりや政・官・財一体となった構造汚職、過労死にいたるはたらく人人の疲弊、就職差別や出産率の低下にみられる女性のきびしい経済環境、くりかえされる自然環境破壊――との関係で、それをのりこえる経済モデルとして社会主義の可能性を追求していることである。伊藤氏は、「それらの社会経済諸問題をつうじ、その背後の資本主義市場経済の限界を思想的、理論的にのりこえて、働く人々や社会的弱者の抑圧や困難からの主体的解放を求める社会主義の主張と運動が、現実的基盤をもって日本におそらくくりかえし展開されざるをえないであろう」とのべている。こんにちの情勢はそのことの必要性をつよくもとめている。 

[編集部注] この本は残念ながら絶版となっています。図書館か古書店をさがしてみてください。

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