社会変革のために闘った人々の足跡

銀閣寺〜法然院(京都・東山)

生粋の京都人

『労働通信』2003年1月号

 読者から「労働通信」は固い記事がおおいので一息つけるコーナーがほしいという意見をいただいてはじまったこのコーナーも四回目をかぞえることとなった。一般のガイドとはちょっと趣のちがった京都の旧跡・名所を紹介してきたつもりであるが、いかがだったろうか。季節も冬となり京都では底冷えの寒い時節である。この時期の京都もまた趣があり面白い。とくに雪の寺院を訪ねると気の遠くなるような静けさが身を包み、一瞬でも社会の喧騒を忘れさせてくれる。今回はそんな季節にふさわしい名所を紹介しようと思う。

 京都といえば、西の金閣寺と東の銀閣寺が有名であるが、私はどちらかといえばきらびやかで派手な金閣寺よりも、わびさびの趣がある銀閣寺のほうが落ち着くことができて好きである。


 銀閣寺は、一四八二年(文明一四年)建立され室町幕府八代将軍足利義政が、なにもかも思いどおりにならない施政に嫌気がさし、隠居生活をすごすために山荘東山殿を造営した。これが銀閣寺の発祥である。総門をくぐると中門まで石垣・竹垣・椿の生垣の調和が見事な銀閣寺垣があり、中門からなかに入ると銀沙灘(ぎんしゃだん)・公月台(こうげつだい)の美しい庭園が目に飛びこんでくる。本堂の前から見る観音殿(銀閣)は、銀沙灘・公月台と見事に調和して東山文化のわびさびの世界を感じさせてくれる。

 そんな有名な銀閣寺をでて左手の細い道を南に三〇〇メートルほど歩いたところに、法然院という京都にしては小さめの寺院がある。

 この寺院は、鎌倉時代初期、法然上人が弟子の住蓮・安楽とともに六時礼讃(昼夜六度にわたって阿弥陀仏を礼拝・賛嘆すること)を唱えた鹿ケ谷の草庵を江戸時代初期の一六○八年(延宝八年)に再興したものである。茅葺の山門をくぐると、両側には白い盛り砂の白砂壇(びゃくさだん)があり、本堂には本尊阿弥陀如来坐像や法然上人立像などが安置してある。

 この寺院のおもしろいところは、境内でアフガニスタン展やアウシュビッツ展が開催されたり、環境をテーマにしたコンサートがおこなわれるなど、京都の寺院ではちょっと異質な催し物があることである。私は、きっと住職がリベラルな方なのだろうと勝手に想像している。

 その敷地内にある墓地には河上肇と秀夫人の墓標がある。

 河上肇といえばご存じのように有名なマルクス経済学者である。彼は、世の中の矛盾にたいしてまじめな態度で学術的な分析をこころみ、それを突き詰めていくとマルクス・レーニン主義に依拠するしかないこと、研究者として書斎に閉じこもっているだけでは何も変わらないこと、そして行動をおこさずにはいられないということを理解していた。一九三二年に五二歳にして、当時非合法組織であった日本共産党に入党したが、顔の売れている彼は地下活動を余儀なくされた。そうした状況のなかでも日本の社会主義運動にとって重要な文献の翻訳や紹介を意欲的におこなった。入党前の作ではあるが彼の代表作『貧乏物語』(一九一六年 大阪朝日新聞連載)は、貧乏とは何か、そしてどのように貧乏人はつくられるのかを科学的に分析しようとこころみた当時としては画期的なものであった。そして一一年後にはマルクス・レーニン主義への確信をもってつづられた『第二貧乏物語』(一九二九年〜一九三〇年 雑誌「改造」連載)で、弁証法的唯物論の立場からその研究を発展させられた。また、当時のレーニンの著書『共産主義内の左翼小児病』を紹介し、左翼のなかに必然的に生まれでる「左翼」日和見主義への警鐘を鳴らしていることも興味深い。彼は、書斎のなかだけでなく書斎のそとでも労農党の支援をおこなうなど活発な活動を繰りひろげたが、ついに一九三三年治安維持法違反で逮捕・投獄された。五年後に釈放されたのちは、第一線の活動からは退いたが彼の功績は日本の社会主義運動にとってはかり知れないものがあり、彼から影響をうけた革命家は数えきれない。彼の自伝等を読んでいると、学者として書斎を愛しながら、活動家としてそれだけでは許されないことを理解していた彼は、一生をとおしてその狭間で苦悩していたことがうかがえる。そこに彼の人間臭さがあるようにおもう。そのような彼を慕う者たちが毎年この墓標に詣でる行事もあるみたいである。

 なお、一生を通して陰ながら彼を助けた秀夫人の弟で、戦後日本の革命運動に寄与した大塚有章の墓も同じ敷地内にある。

 銀閣寺を訪ねることがあればぜひ法然院にも足を運んでみてはいかがだろうか。 

                

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