特集 広がる「成果実績主義」
成果実績主義をどうとらえるか

『労働通信』2003年5月号

 いま、おおくの企業で、成果実績主義の人事制度・賃金制度が導入されている。昨年五月には、旧日経連(現在は日本経団連に統合)が「成果主義時代の賃金システムのあり方――多立型賃金体系に向けて――」という特別報告を発表し、この方向をいっそう加速しようとしている。その実態はどうなっているのか、これにたいして労働組合はどう対処すればよいのかを考えてみた。

 成果実績主義の「理念」は、つぎのようなことである。

 企業と労働者がもたれあうような関係をやめ、一人一人の労働者が自立して、自分で目標を立てて行動し、成果をあげていく。企業は労働者にそうした「自己実現」の場や機会を提供し、労働者の生き生きとした活動によって業績をあげていく。そしてこの業績アップの成果を一人一人の労働者の貢献度に応じて還元し、個人と企業がともにハッピーになっていく。

 だが、そのようなハッピーなことがすべての労働者にあてはまるとは誰も考えていない。

 各社で導入されている成果実績主義には少しずつ違いはあるが、大きな共通点としてはつぎのことがあげられる。

 第一は、企業内で職種・職務のちがいにかかわりなく一本の賃金体系を適用してきた傾向をやめ、大きくいって「非定型的職務」と「定型的職務」にわけて二本立ての賃金体系を導入していることである。

 第二は、それぞれの労働者に半期ごとに上司との面談で自分の目標を決めさせ、その成果・実績によって、S、A、B、C、D、Eといった評価や査定をおこない、それが賃金にダイレクトに反映させる仕組みをつくっていることである。旧日経連のモデルでは、D評価では成果給ゼロ、E評価なら固定給部分までカットすることがうたわれている。


 こうした成果主義を導入する理由として、旧日経連の特別報告はつぎのようにのべている。

 「わが国経済は、グローバル経済化による世界的競争のなかで不安定成長時代をむかえている。………人件費が業績の動きに対応できないために利益を圧迫している。利益が減少をつづければ、将来にむけた設備投資や研究開発投資をおこなえず、企業競争力を失うことになる」

 有り体にいえば、こういうことである。コスト競争も含めて国際競争がはげしくなるなかで、これまでの賃金体系では賃金コストが高くて負けてしまう。そのため、賃金体系をかえて、賃金原資全体を削減していかなければならない。かりに売上や利益があがったとしても、それを賃金に還元すべきではなく、設備投資や研究開発投資にまわすべきだ。ただし、全体を一律で賃下げすると士気が下がるので下がるので、『成果』を上げる労働者にだけ賃金をアップし、その他の労働者の賃金は切り下げ、さらに成績の悪いものにはやめてもらう。

 個個人の労働者が「自己実現」をできて、会社も業績があがり、ともにハッピーになるということは幻想にすぎない。

成果主義がもたらしたもの

 成果実績主義の導入が早いところでは九〇年代のなかばからはじまっているが、それは労働者や企業に何をもたらしただろうか。

 一つは、当面する成果・実績をあげるために、サービス残業もものともしないモーレツな働きかたを「自主的」におこなうことが余儀なくされ、そのことが労働者を肉体的・精神的にむしばみ、「過労死」などの悲劇的な事態をうみだしていることである。

 二つめは、企業から「売上に貢献できない」「不要だ」「やってもらう仕事がない」と判定された労働者にたいしては、人事評価をさげ、賃金をさげるというところからはじまって、露骨な退職勧奨もふくめて、無情に企業からきりすてていくという動きがつよまっていることである。かつて、サービス残業などもやって、会社に貢献した有能な労働者であっても、今、当面の売上に貢献できなければ、まさに情け容赦なくクビをきられている。

 三つめは、成果実績主義を極端にすすめてきた結果、いくつかの企業では、労働者は長期的なプロジェクトですぐには結果がでないような仕事を敬遠し、短期的な目前の利益だけでしか考えられない短絡的な傾向をうみだしていることである。それは、新製品・新サービスの開発や新規の顧客開拓などを低迷させ、企業の活力をそいでしまう結果さえ生み出している。

 四つめは、成果実績主義のもととなる人事評価は、結局すべての労働者が納得できるしろものではない。人事評価にあたっては、一見して「客観的」な指標や方程式を用意したとしても、最終的には評価者の主観的な判断に左右されざるを得ない。しかも、賃金原資の総額は圧縮するか、せいぜい横ばいであるため、だれかの評価をあげれば、その分だれかの評価をさげざるをない仕組みとなっており、どのような評価をしても、労働者のなかに不満や不信感、わだかまりが生じざるを得ない。これまで成果実績主義賃金を導入した企業の事例をみても、おおくの企業でかえって労働者の仕事への意欲や会社に貢献しようという気持ちが低下し、生産性も低下しているのが現実である。

 五つ目は、成果主義の導入によって、労働者の賃金、年収が確実に下がっていることである。ボーナスがより企業業績とリンクするようになったため、年収の不安定さもひろがり、ボーナス払いを想定してローンを組むことも今後はむずかしくなってきつつある。それは、労働者全体の消費購買力を低下させ、ますます「売れない時代」を深刻化し、日本経済の疲弊をいちだんと進行させるものとなっている。

はたして理念は

 一人一人の労働者が自律的に働き、企業はそのための機会や場を提供する、そして一人一人の労働者の生き生きとした働きによって企業も発展し、個人も自己実現できる。この成果実績主義の人事制度の理念は、もともとは効果的な組織運営と効果的な成果創出にむけたマネジメント手法として一九五〇年代にピーター・F・ドラッガーという学者によって提唱されたものである。

 たしかに、このような個人と組織(企業)との関係は理想的であるかもしれない。そして、それを実現するような基盤も実際の経済システムのなかではできつつある。すなわち、かつてのような重長厚大型の大量生産システムでは、ピラミッド型の会社組織のもとで、上意下達の命令のもとに大量の労働者がラインでいっせいに労働することが求められていた。だが、こんにちのように産業全体が知識化し、マーケットの動きに機敏に対応して多品種少量生産を実行し、ものづくりの生産現場でもより高度な技術がもとめられている社会では、自律した個人とより柔軟な組織との相互関係が客観的にももとめられているのではないか。

 だが、利潤追求を第一とする資本主義社会では、いくらりっぱな理念をもった成果実績主義の人事・賃金制度であっても、本来の理念はねじまげられ、とどのつまりは「賃金を切り下げる」という目的につかわれる以外にない。その結果は、生産の原動力である労働者の生活を破壊し、生産意欲を低下させ、あらたにクリエイティブな活動をやろうという士気をくじき、さらに消費購買力をも低迷させて、日本経済をさらに先の見えない不況へといざなっているである。

どう対処していくのか

 成果主義の人事・賃金制度にたいして、どう対処していくか。春闘の形骸化がいちだんとすすみ、成果実績主義によって労働者の賃金が個個人ごとに決められる傾向がすすむなかで、労働組合がどう取り組んでいくかが問われている。

 まず、はっきりさせなければならないことは、賃金とは労働力の再生産費であり、労働者とその家族が、衣食住を充足するだけでなく、子供に十分な教育を受けさせ、さらに文化や娯楽、スポーツ、親戚や近所などの付き合いなど人間的な生活を享受し、さらに労働組合運動や政治的・社会的な活動、ボランティア活動など、社会をになっていくような活動にも参加できるだけの余裕を実現できるだけの水準を確保しなければならないということである。今のように、企業の目先の利益確保のために労働者の首を切ったり、賃金を下げたりするやり方では、社会の活力そのものをみずからそいでしまう。労働者の賃金要求はその意味で社会的な正当性をもっているのである。

 当然のことながら、このような正当な賃金要求であっても、利潤追求第一の資本主義社会では、労働者が団結してたたかわなければかちとることはできない。成果実績主義賃金が導入されたもとでも、これを安易な賃下げの道具にすることをゆるさず、労働組合として賃金原資全体の維持・増大を要求し、公正な評価を要求するたたかいも必要となってくる。労働者への「評価」についてもブラックボックス化をゆるさず、明確な基準づくりや透明性の確保について労働組合が積極的に発言していくことも求められている。

 さらに、重要なことは、労働者の「弱い部分」にたいしてかけられている首切りや退職強要などの攻撃をみのがすことなく、これらの労働者の立場にたって、職場全体でささえながら、不当な切捨て攻撃をゆるさないたたかいを組織することも不可欠である。

 同時に賃金制度とリンクさせて、健保・年金、雇用保険などの社会保障制度の改悪に反対するたたかいも必要である。

 さらに重要なことは、これらのたたかいのなかで、利潤追求第一の資本主義、市場原理至上主義そのものを根本的に問い返すことである。資本主義がつづくかぎり、いくら立派な理念をかかげてもそれは労働者を疲弊させ、生産力を破壊し、資本主義がみずからを滅ぼす道を歩む以外にないからである。

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