A第一回は継体擁立、第二回は乙巳の変

古希 転々生

『労働通信』2003年5月号

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 前回「はじめに」で、三つのメツセージを発しておいたが、正確にキャッチされただろうか?

 一つは、昭和天皇が米英との戦争に反対であったのに開戦したこと。そして、その責任を御前会議に転嫁していること。帝国憲法に「天皇は統治権を総括し、陸海軍を統率し、開戦を宣告する」とあるのに。二つは、ならば戦死者の霊が靖国神杜に祀られているはずはないということ。三つは、訳もわからずに有難がることは、天皇制も宗教も同じであること。

第一回のピンチ

 さて、記紀(古事記・日本書紀)によると、アマテラスが孫のニニギを高天原から九州の高干穂にくだし、その子孫のイワレヒコが瀬戸内海を東進して大和(奈良県)に侵入し、橿原で即位して神武〈1〉(以下、数字は記紀による天皇順位)になったという(この日が戦前の紀元節、現在の建国記念日である)。

 この記述をそのまま受け取るとして、これに抵抗したナガスネヒコらの現地豪族はどう呼ばれているか。 賎奴・荒神・土蜘蛛などと蔑称されている。遠路はるばる侵略してきたのは天皇軍であり、自存自衛のために戦ったのが豪族軍であるのに。

神武東征(戦前の教科書から)

 

 

 

 

 

 

 筆者は、奈良盆地の一角に小国をたてたのが神武、それを近畿一帯におよぼしたのが崇神〈10〉、さらに西の北九州にまで拡げたのが応神〈15〉と考えている。その過程においては、圧迫による併合もあったろう(=オオクニヌシの国譲り)が、基本的には征服戦争によるものだったことは、ヤマトタケルの伝説や雄略〈21〉の中国への上奏文にうかがわれる。【武装して休むまもなく、東の蝦夷や西の隼人を征討した】というのだから。

 書紀は、雄略については【乱暴で怒りっぼく殺人が多かった。人々は大悪天皇とそしった】と、武烈〈25〉については【悪ばかりで一つも善をなさず、人々みな恐怖した】と書いている。この武烈には子供がなかったので、大伴氏が越前の応神五世の孫を擁立して継体〈?26?〉としたが、二十年も大和に入れなかったらしい。いかに、天皇という特殊な地位とはいえ、五代さかのぼってまた五代くだるということが事実と考えられようか。(上の系図参照)。

 これが、天皇制第一回のピンチである

第二回のピンチ

 この頃は、葛城→平群→大伴→物部→蘇我などの有力豪族が、それぞれ自氏に有利な天皇を擁立しようと争った。その最終勝者が蘇我氏で、これからしばらくは蘇我と血縁的に結ばれているか、そのバックアップにより即位する天皇がつづく。崇峻〈32〉の暗殺も、初の女帝の推古〈33〉のときの聖徳太子の登場も、その背後にいたのは蘇我ウマコである。

 ここで一言。聖徳の十七条憲法には【篤く仏法僧の三宝を敬え】とあり、また【世間虚仮(こけ)・唯仏是真】と言ったとか。虚仮とは、真実でない虚像ということ。こうして、わが国に仏教が定着することになるのだが、これは善政なのか失政なのか。筆者は【神仏虚仮・世間是真】と思うのだが如何?

 かくて、蘇我の勢力はエミシ・イルカのとき、天皇家を凌ぐほどになる。自邸を宮門(みかど)、息子を王子、墓を陵(みささぎ)と天皇並みに称したばかりか、聖徳の子ヤマシロを攻め殺す。

 これに危機感を抱いたのがナカノオオエで、彼は中臣(のちの藤原)鎌足と結んで、大化の改新の幕開けとなる乙巳(六四五年の干支)の変を敢行する。

 【鎌足がイルカを騙して剣をはずさせる。刺客らが緊張のあまり躊躇しているのを見て、大極殿の隅に隠れていたナカノオオエは「やあっ!」と叫んで躍り出るや、イルカの頭や肩に斬りつけた。イルカは転倒しながら、「自分がなんの悪いことをしたのか」と訴える。皇極〈35〉が「いったいどうしたことか」と訊くのに、ナカノオオエは「イルカが皇位を奪おうとしているのです」と答えた】

 ここで疑問なのは、イルカが果たして本当に天皇にとって代わろうとしていたかということ。前述のように僭越な言動はあったろうが、蘇我の目的はのちの藤原と同じように、外戚(=天皇の母方の親戚)の地位を独占し継続することにあったのではないか。だとすれば、これはライバル打倒のクーデターということになる。天皇制ピンチの第二回目である。それにしても、書紀の記述のなんと精彩にとんでいることか。天皇制護持のためには、皇子みずからこのような暗殺劇を演じていることを記憶されたい。

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