
『労働通信』2003年5月号
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アメリカ、イギリスによるイラク侵略戦争は、米英軍がイラクのほぼ全土を占領し、フセイン政権を崩壊させ、つぎは「暫定統治機構」の設立へとすすむ局面にはいった。 |
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どのように、また、なぜイラクへの米国の関与は始まったのでしょうか? 企業メディアは、ブッシュ政権のイラクに関する嘘および策略の報道(つまり宣伝)に膨大な時間をあてていますが、この単純で重大な質問にはほとんど答えていません。
一九二〇年代の初頭いらいずっと、アメリカのイラクにたいする政策は、強力に一つの目的に集中しています。それは、この国の豊富な石油資源をコントロールすることにほかなりません。
イラクにたいするアメリカの干渉は、第一次世界大戦(資本主義帝国主義間の戦争)後にはじまります。当時、一方にドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国およびオスマン・トルコ帝国があり、他方にはイギリス、フランス、ロシアなどの帝国主義国の協商がありました。中東地域はそのほとんどがオスマン・トルコ帝国の管理下にありました。
イギリスは、その代理人であるT・E・ローレンス(ハリウッド映画で「アラビアのローレンス」として知られている人物)をつうじて、アラブの指導者たちにたいして、もしかれらがイギリスと一緒になってトルコの支配とたたかうならば、戦後、イギリスはアラブの独立国家の形成を支援すると約束しました。
ところがおなじ時期に、イギリスの外務省はフランスの外務省やロシアの外務省と秘密のサイクス・ピコ条約に署名していました。サイクス・ピコ条約は中東を再分割するというものでした。この合意内容は、一九一七年のロシア革命後にボルシェビキ党によって公表され、帝国主義的な政策として非難されました。

アラブ人やクルド人は、帝国主義的な「民主主義」の名のもとでおこなわれた裏切りをみやぶり、中東のいたるところで反乱をおこしました。それは植民時代をつうじてずっとつづきました。弾圧は極端に残忍でした。たとえば一九二五年には、イギリスがイラクのスライマニヤ地方のクルド人の町に毒ガスを投下しました。これは、毒ガスが戦場に使用された最初のものです。
戦争が一九一八年に終わったのち、イギリスとフランスはみずからの計画を実行にうつしました。かれらが合意したことは、パレスチナ、ヨルダンおよびイラク南部の二つの州(バグダッドおよびバスラ)を大英帝国の一部に組み入れる一方、レバノンとシリアはフランスの帝国にくみいれるということでした。
しかし、かれらはどの国がモスル州(現代のイラクの北部エリア)を獲得するかという点では一致できませんでした。サイクス・ピコ条約によれば、この州はフランスの勢力圏でした。しかし、イギリスはこのモスル州――人口の大部分がクルド人――を、みずからの新しいイラク植民地に加えようと決意しました。その要求を実現するために、イギリス陸軍はトルコ降伏の四日後の一九一八年一〇月、モスルを占領し、けっして撤退しませんでした。
モスル州をめぐるイギリスとフランスの間の帝国主義間のあらそいの解決は、イラクにおけるアメリカの役割の始まりをもたらしました。
大国にとってモスル州がなぜ重要であったかというと、この地域に未開発の膨大な石油資源の存在が知られていたからです。
アメリカが第一次世界大戦においてイギリスやフランスの側にたって参戦したのは一九一七年になってからですが、それはイギリス、フランスなどの同盟国もその敵の側も疲れ果てたときでした。アメリカが参戦にあたってだした条件は、かれらの経済的・政治的目的を戦後の世界の中で考慮にいれるということでした。その目的の一つが、あらたな天然資源とりわけ石油資源を確保するということでした。
一九一九年二月に、イギリス植民地の高官であったアーサー・ハーツエル卿は、同僚につぎのように警告しました。
「スタンダードオイルがイラクを手に入れることを切望していることに留意しなければなりません」(ピーター・スルグレット著『イラクのなかのイギリス』)
アメリカは、この地域におけるイギリスやフランスの支配に直面して、当初、「門戸開放政策」を要求しました。すなわち、イギリスによってイラクの王座にすえられたファイサル国王の傀儡(かいらい)政権にたいして、アメリカの石油会社が自由に契約をとりきめることができるようにせよ、ということでした。
イラクをめぐる戦勝国内部の矛盾の解決策は、イラクの石油を分割することでした。イギリスは、あたらしいイラクの植民地の一部としてモスル州を維持することができました。アメリカは第一次世界大戦での役割への報酬としてイラクの石油の一部を確保しました。
イラクの石油は五つに分割されました。イギリス、フランス、オランダ、アメリカが二三・七五%ずつ分割し、のこりの五%が石油王カロステ・グルベンキアンへと流れました。かれは、「ファイブ・パーセンター」とよばれ、列強間の合意づくりの手助けをおこないました。
イラク石油のうち、イラクに帰属したのはまったくのゼロ%でした。そうした状態は一九五八年までつづくのですが、それはどのような状況だったでしょうか。
一九二七年には主要な石油探索がおこなわれ、モスル州で巨大な石油埋蔵が発見されました。二年後、アングロ・イラニアン(現BP)、シェル、モービル、スタンダード・オイル・オブ・ニュージャージー(エクソン)などで構成される「イラク・ペトロリアム・カンパニー」が設立され、イラクにおける石油生産をすべて独占してしまいました。
おなじ時期、アル・サウド家は、ワシントンの援助で近隣のアラビア半島のおおくを征服しました。サウジアラビアは米国の新植民地として一九三〇年代にうまれました。サウジアラビアの首都であるリヤドにあるアメリカ大使館はアラムコ(アラブ・アメリカン・オイル)という企業の建物のなかにつくられました。
しかし、アメリカの石油会社とワシントンにあるかれらの政府はこれでも満足しませんでした。かれらは、ちょうど西半球の石油備蓄のほぼすべてを独占していたように、中東の石油の完全な支配をのぞみました。それは、当時までこの地域の勝者であったイギリスに、アメリカがなりかわることを意味しました。
アメリカにとってのチャンスは第二次世界後にやってきました。
アメリカとイギリスとのあいだの戦争中の関係は、もっとも緊密な同盟国であると一般的に描かれてきましたが、事実は、かれらが猛烈な競争相手でもあったということです。
この戦争は、大英帝国の力を、本国においても、主要な植民地を失ったアジアにおいても弱めました。戦争の初期段階である一九三九年から一九四二年には、イギリスが生きのこれるかどうかさえ疑問でした。その後も、以前のような力を回復することはありませんでした。その一方でアメリカの力は、戦争の期間をとおしてますます強力になりました。
第二次世界大戦の最終段階では、大銀行、石油会社をはじめとする大企業の利益によって支配されたルーズべルトやトルーマンなどの政権が、アメリカの支配的な位置を保障するために戦後の世界を再構成する決意を固めました。それらの戦略の重要な要素は次のとおりでした。
戦火が戦場でまだ猛威をふるっていた時期から、その背後では、世界経済の支配をめぐるたたかいがアメリカとイギリスのあいだで展開されていました。
ノルマンディー上陸作戦の三カ月前の一九四四年三月四日、イギリスのウィンストン・チャーチル首相が、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領のもとへ送った手紙は、その帝国主義的な内容の面でも、また敵対的な調子においても異常なものでした。
「イランおよびイラクにおけるわれわれの油田にたいして、あなた方が『ひつじの目』(ねたましそうに見ること)をお持ちでないことを保証していただいていることに感謝します。そのかわり、私たちがサウジアラビアにおけるあなた方の権益や財産に角を突きつける考えを持っていないという最も十分な保証をいたします。このことについての私の立場は、すべての問題において、イギリスは戦争の結果として、何らかの利点や領土的要求をはじめ何らかのものをもとめないということであります。他方で、わが国は、わが国に属するものはいかなるものも奪われることはないでしょう。あなた方の謙遜な使用人が、わが国の業務を託される限りは」(コルコ著『戦争の政治』)
この記録が明確にしめすことは、アメリカの指導者たちが、イギリスの重要な新植民地であったイランとイラクを奪取することを非常に渇望していたということです。そのことは、イギリスの支配階級の警告のベルを鳴らすこととなったのです。
チャーチルのこけおどしにもかかわらず、増大するアメリカの力をおさえるために、イギリスができることは何もありませんでした。数年のうちに、イギリスの支配階級は、新しい現実に適合して、アメリカの目下のパートナーとしての新しい役割を引き受けることになります。
一九五三年、アメリカはイランの支配権をにぎるために、CIAをつかってシャー(王)を力づくで政権の地位にすえるクーデターをひきおこしました。
一方、イラクは、一九五〇年代なかごろまでには、アメリカおよびイギリスによって共同でコントロールされるようになりました。バグダッド条約機構、すなわち中央条約機構(CENTO)は、二つの目的を持っていました。
一つは、中東および南アジアでアラブをはじめとする民族解放運動の発展に反対することでした。
もう一つは、NATO(北大西洋条約機構)、SEATOおよびANZUSなど他の軍事同盟と連動して、ソ連、中国、東ヨーロッパ、北朝鮮および北ベトナムの社会主義陣営を包囲することでした。
CENTOの中心であるイラクは、名目上、唯一独立していました。イギリスは、イラクに軍用飛行場を維持していました。世界の石油埋蔵量の一〇%をかかえ、国は豊かになる一方で、民衆は極貧と飢えのなかで生きていました。文盲率は八〇%以上でした。医者は、人口六〇〇〇人に一人しかいませんでした。歯科医は五〇万人に一人しかいませんでした。
イラクは、ファイサル二世国王のもとでの腐敗した君主制および封建的地主・商人資本家などによって支配されていました。イラクにおける貧困の根本的な原因は、イラクがその広大な石油備蓄を所有しなかったという単純な事実でした。
しかし、一九五八年七月一四日、イラクは強力な社会的爆発によってゆり動かされました。軍部の反乱は国全体にわたる革命へ発展しました。国王およびその政権は急速に崩壊し、人人の正義が回復しました。
ワシントンとウォール街は茫然としました。アメリカにおける「記録の新聞」といわれる『ニューヨークタイムズ』の次の週の誌面は、最初から一〇ページ分はイラク革命以外の記事がのっていないほどでした。そのちょうど六カ月後にキューバで起こった大きな革命の方がこんにちではいっそう有名ですが、その当時、ワシントンはイラクの革命の方がアメリカの死活の利益にかかわってはるかに恐ろしいものだとみなしていました。
アイゼンハワー大統領は、「朝鮮戦争いらいのもっとも重大な危機」だとさけびました。イラク革命の翌日、二万人のアメリカ海兵隊がレバノンに上陸しはじめました。その翌日、六六〇〇人のイギリスの落下傘部隊がヨルダンに飛来しました。
これは、「アイゼンハワー・ドクトリン」として知られる政策の具体化でした。すなわち、アメリカは死活の利益をもつ中東における革命の広がりを阻止するために、直接的な介入、すなわち戦争をおこなうということです。
米英の遠征軍は、新植民地主義の政府を救出するためにレバノンとヨルダンにむかいました。もし、そうしなければ、イラクから発せられた民衆の衝動は、ベイルートやアンマンにおける腐敗した従属政府を破滅させていたことでしょう。
しかしアイゼンハワーと、その将軍および大国主義的な国務長官ジョン・フォスター・ダレスは他の狙いを胸の中に秘めていました。それは、イラクを侵略し、革命をくつがえし、新たな傀儡(かいらい)政権をバグダッドに設立することでした。ただ、ワシントンは、つぎの三つの要因によって、この一九五八年の計画を放棄せざるを得ませんでした。
これらの要因がかさなって、アメリカの指導者はイラクの革命の存在を受け入れざるをえませんでした。
しかし、ワシントンは、実際にイラクの損失に甘んじませんでした。その後の三〇年間以上にわたって、アメリカは独立国であるイラクを弱体化することを目的にさまざまな戦術をとってきました。
機会あるごとに、たとえば、イラクが一九七二年にイラク石油会社の国有化を完成し、ソ連と防衛条約に署名すると、アメリカはバグダッドとたたかうクルド族の右翼勢力に大規模な軍事援助をあたえ、「テロリスト国家」のリストにイラクをくわえました。
アメリカは、革命後の政権の枠内で、共産主義や左翼民族主義に反対する右翼的な要素を支援しました。たとえば、アメリカは、一九七〇年代の後半に、サダム・フセインのバース党政権が、共産党や左翼に指導された労働組合を弾圧したことを賞賛しました。
一九八〇年代には、アメリカはイランと戦争させるために、イラクにたいして資金を提供し、軍事援助をおこないました。イランへのアメリカの支配が、一九七九年のイスラム革命によって終焉させられたからです。
しかしながら、イラン-イラク戦争におけるアメリカの本当の目標は、両方の国を弱めて破壊することでした。前国務長官ヘンリー・キッシンジャーは、戦争にかんする実際のアメリカの姿勢について、「私は、かれらがたがいに殺しあうことを望みます」とのべています。
イラン・イラク戦争
ペンタゴン(米国防総省)は、イラクの空軍にイランにおける攻撃目標の衛星写真を提供しました。同時に、イラン・コントラ・スキャンダルがあきらかにするように、アメリカはイランへ対空ミサイルを送っていました。
イラン・イラク戦争は、両国で百万人あまりの人々を殺し、両方の国を弱体化させる災害でした。
戦争が一九八八年に終わったのちにおこったソ連における情勢の変化は、ソ連と軍事条約や友好条約を結んでいたイラクにとって、新たな、さらに重大な危険をもたらしました。モスクワのゴルバチョフ政権は、アメリカとの「恒久的なデタント(緊張緩和)」を求めて、世界の開発途上の同盟国への支援をうちきりはじめました。一九八九年、ゴルバチョフはのちに崩壊した東ヨーロッパの社会主義諸国を訪問し、これらの国への援助を取消しました。この世界の諸関係のするどい変化は、二年後にはソ連自体の崩壊によって最高潮に達し、アメリカ帝国主義にとって第二次世界大戦後、最大の勝利をもたらしました。
それは、一九九一年にアメリカのイラクにたいする戦争の扉を開け、さらにその後の一〇年にわたって、制裁・封鎖および爆撃によってイラクとその国の人人を苦しめてきました。
こんにち、ブッシュ政権は、「多量破壊兵器」や「人権」について語ることによって、イラクにたいするあらたな戦争にたいする公的な支援をかちとろうとしています。しかし現実には、ワシントンの関心は、小さくなったイラクの軍隊の力量でもなければ、世界中の人権でもありません。二〇〇二年のアメリカの対イラク政策を突き動かしているものは、八〇年前にワシントンを動かした同じ目的、すなわち石油の獲得にほかならないのです。