B第三回は道鏡、第四回は足利義満の皇位纂奪計画
『労働通信』2003年7月号
大化クーデターの中心人物である、中大兄が即位して天智〈38〉となる。その没後に、子大友と弟大海人(→天武〈40〉)のあいだに皇位継承をめぐり、〈壬申の乱〉という古代最大の内戦がおこる。ついで律令が制定され、都は奈良にうつる。ここで、天皇みずから招いた、〃万世一系〃にとっての第三回の危機がおとずれるのである。
聖武〈45〉と光明皇后のあいだに生まれた皇女が、孝謙〈46〉となり再び即位して称徳〈48〉となる。孝謙のとき藤原仲麻呂を、称徳になって道鏡を寵愛するのは周知のとおり。保養のため近江離宮にあったとき、道鏡が祈祷・看病に当たったのがなれそめの始め。女帝は仲麻呂を反乱罪で処刑するとともに、彼の支持していた淳仁〈47〉を淡路に流し、逃亡を企てたとして殺害したようである。
一方、道鏡は出世階段をのぼりつめ、太政大臣と法王という政教両界のトップを兼ねる。ここに起こったのが〈神託事件〉で、宇佐八幡神から【道鏡を皇位に就かしめば天下太平ならむ】とのお告げがあったという。その確認のために派遣されたのが和気清麻呂で、彼は帰京して報告する。【わが国は開闢(=そもそもの初め)より、臣を以て君となすこと未だあらず。無道の人(=道鏡)は早かに掃除すべし】(背後の黒幕は藤原氏である)
翌年、称徳が没し道鏡は左遷されるが、危うく〃道鏡天皇〃が実現しかかったのである。とはいえ、私は孤閨に置かれた一人の女性としての、この称徳に同情するにやぶさかではない。(ちなみに、戦前の人物評価の基準は天皇であった。三逆臣はイルカ・道鏡・足利尊氏、三忠臣は清麻呂・菅原道真・楠木正成)
平安時代に入ると、藤原氏は天皇の外戚として摂関を独占する。
そして一族の娘を後宮にいれ、その所生の皇子に皇位を継がせるべく、フイルムの速回しのように幼少即位・早期退位がくりかえされる。その典型が花山〈65〉で、寵妃の死をなげいて厭世感にとらわれているところを、藤原のペテンにかかる。兼家(=道長の父)は花山に出家をすすめ、深夜に連れ出しだまして元慶寺に送り込む。「我をば謀(はか)るなりとて泣かせたまひけれ」(大鏡)と、晦やんでも後の祭り。こうして、兼家の娘が生んだ一条〈66〉が皇位につく。時に、花山は十九歳で、在位わずかに二年。
ところで、この時期に著されたのが『源氏物語』。光源氏というプレイボーイというか、ドンファンの愛欲遍歴の一代記である。彼は太政大臣(=首相)にまで昇進しているのに、政治のセの字もやった気配はない。その一方で、紫式部は庶民を軽蔑して描いている。こんな小説が何度も訳され、いつまでも愛読されていることを、皆さんどう思われる?
次いで、七〇〇年におよぶ武家時代において、天皇制の四度目の危機が足利義満による皇位簒奪計画である。そこまでに、上皇対天皇に端を発する〈保元の乱〉や、源平争乱のとき強い方強い方にすがって地位を保った後白河〈77〉や、討幕をしかけて失敗した後鳥羽〈82〉がある。
元寇のころから、皇統は二分して争う。そこに、皇位を己が系統に確保しようと〃天子御謀叛〃を企てたのが後醍醐〈96〉。こうして始まった南北朝の後遺症は、はるか明治末の〈正閏論争〉(=南北どちらが正統か)から、戦後の〈熊沢天皇〉の出現までつづく。
![]() |
|
|
「熊沢天皇」。南朝末裔の第117代天皇だと自称し、米占領軍の機関紙に取り上げられる。(1949年) |
この半世紀以上にわたる南北朝争乱を、ペテンによって終わらせたのが室町三代将軍の義満で、以後は〈両統迭立〉(=交互に即位)と約束しながら、結局は自分のかつぐ北朝に独占した。こうして、現在までこの系統の天皇がつづいているわけである。朝廷に対しても、生殺与奪の権をにぎった義満はこううそぶいたという。
【われ国王となりて、斯波、細川、畠山らを摂関となさん。われは清和〈56〉の末(=足利は源氏の分かれ)なれば、非理の道にはあらじ】(『足利治乱記』)
次いで、息子の義嗣を後小松〈100〉のあとに就ける構想をたてる。その直後の義満急死がなければ、〃足利天皇〃が出現していたことはまず間違いない。第四のピンチという所以(ゆえん)である。