C (最終回) 敗戦・占領と天皇(君主)批判のあれこれ
『労働通信』2003年9月号
政権基盤の不安定だった秀吉は、後陽成〈107=皇位継承の順番〉を聚楽第に招いて自己の背光として利用した。そうした心配の無かった徳川幕府は、天皇を〈禁中並公家諸法度〉で規制するとともに、京都所司代に監視させる。こうして、天皇は幽閉状態に置かれたまま幕末を迎えるのである。
幕末の天皇は孝明〈121〉であり、彼が幕府に攘夷をやらせるという矛盾した方針を堅持していたため、政局は混乱する。
倒幕を策する薩長が拠りどころとしたのがこの天皇。かくて維新なるや、天皇は現人神(あらひとがみ)として復活し、天皇教という国家神道を突っかえ棒として君臨する。
政治を総攬する元首(=これが帝国憲法)、軍隊を統帥する大元帥(=これが軍人勅諭)、国民道徳の渕元(=これが教育勅語)、ひっくるめて「上御一人」(=ダントツのオンリーワン)とされた。
明治〈122〉は日清・日露戦争を、昭和〈124〉は太平洋戦争を戦い、前者は勝利し後者は敗北する。(両者の戦争へのかかわりの違いは、『明治天皇紀』と『昭和天皇独白録』を、ジョージ六世と第二次大戦については、チャーチルの『第二次大戦回顧録』を見られるがよろしい)
ポツダム宣言の受諾をめぐる、御前会議の最大の論点は〈国体護持〉(=天皇制存続)がなるかならぬかにあった。終戦詔勅は早手まわしに、【朕ハ慈二国体ヲ護持シ得テ、忠良ナル臣民ノ赤誠二信椅シ】と言っている。
戦後、国内外で天皇制の存否が問題化する。マッカーサーはそれを二十ケ師団に相当するものとして、占領政策上から東京裁判においても天皇責任を不問に付す。昭和またこれに応えて、開戦反対のアリバイ証明に努める。その一つが『独白録』だった。かくて、天皇制は今日まで存続しているわけである。
これまで四回にわたって、天皇制の歴史をそのピンチに焦点をあてながら見てきた。最後に、内外の天皇(国王)批判の幾つかをあげて結びとしたい。
・南北朝のとき、後醍醐の側近公家の北畠親房は『神皇正統記』にいう。
【君ハ尊クマシマセド、一人ヲタノシマシメ、万人ヲクルシムル事ハ、天モユルサズ神モサイハヒセヌイハレナレバ、政治ノ可否ニシタガヒテ御運ノ通塞アルベシ】
南朝寄りの『太平記』は、高師直の放言を引用している。
【モシ王ナクテ叶フマジキ道理アラバ、木モテ造ルカ金モテ鋳ルカシテ、生キタル王ヲバ何方ヘモ流シ捨テ奉ラバヤ】
・日露戦争のとき、与謝野晶子は『君死にたまふこと勿れ』に謳った。
【すめらみこと(=天皇)は戦ひに/おほみづからは出でまさね】

・ヴィクトリア女王の治下で、バジョットは『英国憲政論』に書く。
【人間らしい心臓が健全で、理性が微弱なあいだは王制は安泰である】
【国王は超然孤立で結構。ふだんは神秘の帳(とばり)で見えないが、ときに時代祭の神輿(みこし)のようにねって歩く。未熟なため、未だに一個の象徴を必要とする国民の眼前に、それが一億一心の鮮やかな象徴たり得るのである】
こう見てくると、尊王家・君主制支持者といえども、それなりに批判意識を持っていたことが分かる。一切の天皇批判が許されなくなったのは、明治とりわけ昭和以降であるように思える。戦後、日本国憲法によって天皇の行為は国事のみとされ、それも一〇ケ条に限定された。そこから、「開かれた皇室」論が生まれる。
誤解なきように言っておくが、私は一切の天皇制打倒論には反対である。それが最も安定しているかに見える今こそ、自発的に段階をふみながら解消に向かうのをよしとする。天皇という超越的な存在が、千年も万年もつづくはずがないではないか。
〈後記〉拙稿『天皇制・五回のピンチ』について、異論・反論があれば編集部宛てに投稿していただきたい。筆者の勉強にもなるし、天皇史のむつかしさが読者にも理解されるだろうから。