見えてきた「成果主義」の本質

『労働通信』2003年11月号

 最近では、大手企業だけでなく中小企業においても「成果主義」にもとづく人事処遇制度が主流になっている。今や、「成果主義」という言葉を聞かない日はないし、新聞、テレビでも「成果主義」についての特集を組んだりしている。

生産現場まで広がる「成果主義」

 少し前までは、「能力主義」という言葉がよく使われた。報酬を年功や学歴・性別によって決めるのではなく、個人のもつ「職務遂行能力」によって決めようとする考え方である。この考え方は、高度成長期に主流であった年功序列型の処遇制度に取って代わり、企業にとってより利益を生み出す可能性のある人材を確保するために取り入れた処遇制度である。労働者は、能力をみがけば年功や学歴・性別に関係なく多くの報酬が期待できる。しかも、一度獲得した能力はそう簡単に衰えるものではないのでめったなことで報酬が下がることのない制度に期待し、能力主義を提唱する企業に優秀な人材が集まった。しかし、この制度は、経済が右肩上がりの時代に、いわゆるホワイトカラーの処遇制度として考え出されたものであり労働市場が売り手市場であることが前提であった。

 今や経済が停滞し、労働市場が買い手市場に逆転すると話は変わってくる。それは「能力主義」の下で高い賃金を支払ってきた労働者の過剰を生み、企業にとってはコストが高くついてしまうという結果をもたらしたからである。企業は高い能力を持つことを前提としながらも、「能力のいかん」に関わらず、企業の定めた目標値にたいして「どれだけ成果をあげたか」という制度、すなわち「成果主義」的処遇制度を採用しはじめたのである。企業は、労働者が生み出す利益によってその報酬を決めることができるので「能力主義」の時代のように労働者の能力過剰によるコスト高を解消することができると考えたのである。しかも、この制度をブルーカラーの領域にまで適用を広め、生産現場での生産性向上の効果も期待されている。これも、労働者にとっては一見合理的で魅力ある制度のように見える。成果さえあげればそれに見合った報酬がもらえ豊かな生活が期待できるからである。

弊害があらわになる

 しかし、最近成果主義による弊害がクローズアップされるようになってきた。職場では不満の声が高まりつつある。成果主義をいち早く取り入れた某大手企業でも、成果の評価をどのように行うかで試行錯誤を繰り返している。この企業では導入当初、半期に一度の評価を個個人に定められた売上額などの数値によってデジタルに評価しようとした。その結果、優秀な人材でさえも半期で成果のでる仕事しかこなさなくなり、長期的な仕事にたいする意欲がなくなりチャレンジングな企画ができなくなった。その結果、業績が急速に悪化したのである。

 また、労働者の能力を軽視した無理な数値を強要したため最初から目標の達成をあきらめるといった風潮がまんえんし制度自体が形骸化するという事態に陥ってしまった。
 その一方では、無理な数値を達成しようとサービス残業が常態化し、体と精神に異常をきたすものが増え続けたのである。

利益の配分が不適当

 なぜ、このようなことになってしまうのであろうか。本来「成果主義」は労働者の意欲をかき立て生産性を向上するために導入されたのではないのだろうか。私たちは、生産活動によって生活の基盤を確立しており、生産活動なくしては生きてはゆけない。また、生産性が向上するということは、今まで以上に生活を豊かにするということにつながるはずである。それゆえ私たちはいかにして生産性をあげるべきかを常に考えてきたはずである。

 私は、成果に応じて利益を与えられることによって労働者の意欲が高まり生産性が上がるのであれば「成果主義」に一定の理解を示せると考えるし、現実にそうあるべきだと考える。そのやる気を起こさせる利益が個人の利益によってか、社会全体の利益によってかは、文化道徳などの発展過程による人人の意識に規定されるのでここでは問題ではない。ただ、私の理想とする社会全体の利益によって労働者に労働意欲を起こさせるには、個人生活に余裕と将来に対する安心感が絶対に必要であると考える。今の日本ではどうであるかは読者の判断におまかせする。

 成果に応じて利益を得られるという「成果主義」が労働者の生産意欲をかき立てるとすると、なぜ現在起こっているような弊害が出てくるのであろうか。それは、成果に見合った報酬がなく、利益の配分が不適当であり、成果をあげるべき能力を獲得する機会が不平等であるからである。資本主義のもとでは、当然のことであるが企業活動の最終的な目的は資本にいかに利益をもたらすかである。よって、労働者がいかに利益を生み出したとしても利益の大部分は大企業、独占資本にながれ、労働者にはほんの一部しか見返りがないのである。まれに、莫大な報酬をもらうものもいるが、それはごくごく少数であり、他の大多数の労働者は不況のもとで減額されているのである。ここでも企業はアメとムチを使い分けているのである。資本主義のもとでは、本来うたわれている「成果主義」の理念とは、根本的に考え方が違うのである。すなわち、成果をあげて労働者に利益をもたらし生活を向上させるためのものではなく、独占資本により多くの利益をもたらすためのものなのである。それゆえ、先に述べたように、より短期に利益をあげることや、無茶な目標を強要するのである。そこには労働者の意見を反映させる余地はない。労働者が成果をあげても独占資本には大きな利益をもたらすが労働者には若干の利益配分しかないのである。労働者は本能的にそれを感じ取っており、成果に見合った報酬がもらえない状況で生産意欲をなくしているのである。それでも企業は資本主義のもと、生産性をあげ資本に多くの利益をもたらさなければならず、より成果主義を推進しようとし、さらに矛盾を激化させているのである。

 以上が資本主義のもとでの「成果主義」の本質と限界の要因であろう。しかし、これも資本主義の発展過程における避けることのできない制度的矛盾のひとつといえるのではないだろうか。

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