「労働通信」2004年1月号

 現在の憲法は、「自衛」と称して他国を侵略することなどできないように、どんな軍事力も持てないと定めています。憲法のこうした解釈に疑問の余地がないことは、憲法制定時の旧議会での提案理由の説明からも明らかです。提案者は、皮肉にも今の自民党の当時の首相、吉田茂です。彼は、自衛の軍事力も禁止していいのかという共産党の野坂参三議員の質問にたいして、「自衛の名で侵略が起こるからだ」と明確に答えています。

 したがって、三分の二以上の議席でなければ憲法を改められないのに、過半数の議席でクロをシロと解釈することによって「自衛隊」なるものを設置したことは、クーデターまがいの違法行為にほかなりません。これは、時間が経ったからといって、不問に付していい問題ではありません。

まかり通る虚言政治

 憲法の条文についてクロをシロという虚言政治は、歴代の政府が自衛隊は「軍隊」ではないといってきたことで逆証明されています。それは小泉首相の言動にも見られます。「おおくの国民が自衛隊を軍隊だと思うのはもっともだ。しかし、自分は(総理大臣だから)そうだというわけにいかない。」などといっています。このような法治国家を自認しながらの違法発言は、許されるものではありませんが、ところが今では、そうした発言を弾劾する動きがなかったことをいいことに、「自衛隊は軍隊だ。それを認めないという憲法の方がおかしい」と、あからさまに憲法に背を向けた発言をするようになっています。

 しかし、クロをシロという虚言政治は、自民党など保守勢力の専売品ではなくなりました。周知のように、「護憲」や「平和と民主主義」運動の担い手であった今の社民党によって、「自衛隊は違憲ではない。日米安保は支持すべきだ。」と宣言されるようになりました。同じように「護憲」をいい、「平和と民主主義」の担い手とされた共産党によっても、「自衛の軍事力は憲法に違反しない」とされるようになりました。(ただし、「軍事力」は「戦力」とは異なるとし、自衛隊は戦力だから違憲であるとする。<「新日本共産党宣言」不破哲三と井上ひさしの共著から。一四八ページ>)

 とうとう、保守政党だけでなく、革新政党までもが虚言政治の政党となりました。何百万、何千万という人々が参加するのが民主主義の政治です。旧憲法とちがって、誰にも分かるように書かれた条文の文章をわざと読み違えて事実を事実として認めない政治に、民主主義の政治がどうして期待できるでしょうか。戦前ほどではないにしても、国民に取るべきでない武器を取らせた非民主的政治と同じではありませんか。

「自衛」に弱い平和主義

 ところで、こうした状況はなぜ生まれたのでしょうか。それは、自衛も含めて、正当な武力行使もあり得るにもかかわらず、誤った戦争のためにそれをも放棄し、その無抵抗主義的な平和主義を高邁な理念として崇めて来たことにあると思います。

 しかし、その当時の国民は「自衛」のためといわれた戦争が、何ら称賛されるどころか、侵略のためであったとさえいわれては、武器を取ったこと自体が誤りであったかのように考えても不思議ではありません。先の大戦について十分な国民的反省ができるまでは、けっして軍事力を持つべきでないと考えるのは当然だと思います。問題は、一時的な軍事力放棄をあたかも高邁な理想であるかのように、永久的なものとした点にあるでしょう。当時の自民党的な政治支配層が、天皇制の存続と引き換えに、みずからは最強の軍事力を持ちながらわが国には丸腰主義を求めるというアメリカの要求を受け入れたことに問題があります。

 それはそうとして、反省するということは、それまで良いと思ったことが良くないことであることに気付くことだと思います。武力行使が人の殺傷という点で良くないことは、何百年も前から分かっていることです。それを「反省」しても反省したとはいえないでしょう。自衛のためや正当な武力行使ならいいだろうと言われて、「護憲」の旗がしらであった政党が違憲な政党になったのも当然だといえます。皮肉なことに、平和主義の護憲を掲げた「平和と民主主義」の運動が、先の大戦についての反省を妨げて来たといえるでしょう。

 じっさい、人々の目を、戦争で生活が破壊されることや肉体的な危険にあうことに主として向けさせるならば、それらの人々を不当な戦争の協力者にもさせかねません。中国に満州国を作ったことなどが対立を深めたのですが、アメリカに石油を販売しないといわれて、生活の「自衛」のために真珠湾を先制攻撃したのが先の大戦であったからです。

ウソもつき、人も殺すでしょう

 ある映画を題材に引きましょう。名画といわれてますが、「風と共に去りぬ」という映画があります。この映画のあるシーンが、「ひじょうに感動的」であるといわれています。この映画は、アメリカの南北戦争時代を背景に、「スカーレット・オハラ」という女性の生きざまを描いたものです。彼女は、アメリカ南部で黒人奴隷を召使いに持ち経済的にも恵まれて、自由奔放な生き方をする女性です。しかし、南北戦争が始まると戦禍に遭って、命かながら大農園のある実家のタラという町に脱出するのですが、そこも家族が食べて行くには厳しい状況にありました。ここで有名なシーンが出て来ます。まだ、何も収穫出来ない畑の中に立って、彼女が次のように叫ぶのです。「神さま、お聞き下さい。私はこの大いなる試練にけっして負けません。家族に二度とひもじい思いをさせません。生き抜いて見せます。そのためにはウソもつき、だまし、盗み、人をも殺すでしょう。―――」と。

 このスカーレット・オハラのセリフには、生活のためならたいていのことが許される、ふつう許されないことでも許されるという「道徳観」があります。そして、このセリフに「感動」するという人の多いことに注目すべきです。このシーンが、「風と共に去りぬ」という映画を名画にしてると思われるからです。

 しかし、「ひもじい思いをしないために」「ウソもつき、盗み、人をも殺す」という、このインモラールさが人々に不当で愚かな戦争を起こさせたのではないでしょうか。それまでのいきさつは棚に上げて、わが国に石油を売らないと宣言したのでアメリカにたいして戦争を始めた。「自衛」といえばいえなくもないですが、それは植民地支配の帝国主義的(=大日本帝国)「自衛」でしょう。生きてゆくためには、生活のためには何をやってもいいみたいな、そんな道徳観を私たちは肯定しがちです。しかし、こうしたエゴを見直すことが先の大戦を反省することではないでしょうか。そして、こうしたエゴを抑えるためにこそ武力の行使もあるのではないでしょうか。

 売る時はなるべく高く売るが。買う時はなるべく安く買うという市場原理の社会や世界では難しいことかもしれません。しかし、愚かで不当な戦争をやらないためには、銃剣のもとで民主主義を作り出そうというブッシュ政権に追随することも止めなければなりませんが、石油利権(=国益)を考えてイラクに出兵するというようなことも止めなければなりません。

 そうした議論こそが、愚かで不当な戦争を止めさせるのであって、人を殺傷することの非をいうだけでは止めさせることはできないと思うのです。

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