「労働通信」2004年3月号
改革や転換ではなく「再生」という語を表題に使うこと自体、今の民間大企業労組(とりあえず民間大企業の労組に限定する)が、単に組合員からの信頼や国民の共感を得られず運動の立ち遅れや求心力の低下に陥っているという段階にとどまらず、構造的な行き詰まりに直面し「労働組合と呼べるかどうかの崖っぷち」にいるという認識を、評者は抱いているところである。
『連合評価委員会 最終報告』(以下、『最終報告』という)を一読しての感想は、「御説ごもっとも」と「従来からいわれてきたことの繰り返しに過ぎない」の二点であった。先に触れた認識を持つ評者としては、『最終報告』で取り上げられている論点にはほとんどすべて同意できるし、いずれも評論家、研究者や一部の組合役員からすでに聞いたことがある論点ばかりだからである。
もっとも、今回の『最終報告』の意義は、新しい論点の発見というところにではなく、連合自らが設置・人選した「連合評価委員会」という「権威ある(?)第三者機関」が連合と労働組合の現状の問題点を整理し、それを連合執行部が「受け入れた」ところにあるのかもしれない。
しかし、真の、そして最大の問題は、『最終報告』が提起した「改革の方向性」を誰がどのように実行していく(いける)のかというところにあろう。連合の役員や連合構成組織(後でいう「産別組織」)の役員の大方は『最終報告』に同感の意を表したらしいが、それをもって連合はこの「改革の方向性」を実行できるといえるのだろうか? 残念ながら評者にはそれはノーだとしか思えない。
一口に連合といっても、結成の過程から明らかなように、「労働戦線統一」(それは言葉を変えた「左派の排除」であったが)を旗印に掲げつつも、中身は運動形態も労働組合観も雑多な産別組織の集合体である。民間と官公労、民間においても大企業労組と中小企業労組の間には拭い難い断絶がある。また、連合は、産別組織の集合体であるがゆえに、一組合員から見れば、連合、産別(単産ともいう)、単組、支部ないし分会という階層構造(注1)の頂点に位置する雲の上の存在である。いいかえれば、組合員(やパートなど労働現場にいる非組合員)にとって、労働運動とは紛れもなく単組や支部ないし分会の活動のことであり、連合労働運動の実体も(掛け声やデモンストレーションを別とすれば)そこにある。
つまり、『最終報告』がうたった「改革の方向性」も単組や支部・分会の役員、活動家が共感し実行する気概が持てるものでない限り、いくらその分析が現実を衝いたものであっても画餅になってしまう。評者は民間大企業(製造業)労組に属するので、以下はそれに限定して述べることにする(注2)。
民間大企業(製造業)の労組といっても、企業カラーの違いは無視できないし、さらに生産現場とスタッフ部門では組合員の意識に格段の差があり、一概にいいきるのは無理があるのを承知でいえば、評者の属する組織を見る限り、数十年かけて経営側が地道に組合執行部を手なづけてきた最終段階にいたっているのではないかという感想を持つ。
今の組合役員の多数には、パートなど非組合員はいうに及ばず、組合員の切実な要求や願いさえよりも、経営側の経営判断による労働条件の切り下げ提案の方がより親和的に聞こえる。組合員は闘わない執行部に対し突き上げる(突き上げないまでも「文句はいう」)が、経営側は表面上はともかくとして実質的には組合役員に厳しいことをいわないこともある。
しかし基本的には、企業内労働組合がほとんどである日本の労使関係において、『最終報告』もあげている「会社あっての従業員」という論理に伍して闘えるだけの論理を労働組合側がついに構築できなかった結果、その「会社あっての従業員」という論理をより明確により強力に体現する役員が再生産されていった結果であろう。対抗する論理がない場合、唯一存在する論理がより純化していくのは半ば必然と思われる。
加えて、労働組合という組織があまりに保守的過ぎることも、逆説的であるがその傾向を助長する面があると思われる。というのは、上部団体(単組であれば産別、支部や分会であれば単組の本部)の掲げる方針は、往々にして時代の流れに追いつけず組合員の実態ともかけ離れている場合があり、その場合、上部団体に逆らえない下部組織としては、組合員に依拠して実態にそぐわない方針を何とかやり遂げる(注3)よりも、会社側に泣きつき会社側の協力を得て何とか方針を「消化」したように取り繕う方が楽だからである。こうして、組合役員の心理はますます会社側に近づいていくことになる。
今では、組合役員の中で、表面的なレトリックは別として実質的には「会社業績が厳しい折、全社あげて会社の業績回復に傾注すべきであり、そのためには春闘の要求も従業員が目一杯会社に貢献できるように職場環境やメンタルヘルスのこと(それらは労使間で意見が対立しない課題でもあるが)を中心とし、労働条件が労使で議論されるのは望ましくない」という主張すらかいま見られ、組合員の切実な要求をもとにした春闘要求を立案すべきという主張の旗色は悪い。組合員の労働条件についてですらこの調子であり、いわんやパートの均等待遇や、男女共同参画、次世代育成支援などの社会的要請については、視野からすっぽり抜け落ちそれで平然としていられる組合役員も多い。
では再生の展望はあるのだろうか? これはなかなかの難問といわざるを得ない。基本的な戦略としては、『最終報告』に共感しそれを実行する気概を持った組合役員、活動家を育成し増強していくしかない。それは、「会社あっての従業員」という論理の下で、その論理に親和的な組合役員が拡大再生産(より親和的に、より多数に)されている現状と真っ向から対立することであり、大きな軋轢を生む営みである。具体的な展望があるのかどうかすら判然とせず、評者も今後の課題としたいと考えているところである。
注1 場合によっては産別と単組の間に企連(企業連)が存在するし、中小企業労組では支部ないし分会はない場合もある。
注2 官公労や民間でも中小企業労組、あるいは個人加盟方式の地域ユニオンなどでは事情が異なり、それらの組合役員、活動家のメンタリティからすれば、『最終報告』が指し示す「改革の方向性」は一定程度有効かもしれない。
注3 それは短期的には組合員との間で摩擦を生むが、長期的には現場の実態や組合員の要求を反映した労働組合の再生につながる道である。なお、組合員に依拠して実態にそぐわない方針に反逆するという道もあるが、満場一致という虚構を好む労働組合の体質と相いれないため、大きな困難を伴う。